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「無慙愧」は名づけて「人」とせず。名づけて「畜生」とす。(「涅槃経」)  慙愧は恥じらいの心、悔ゆる心である。

平成22年7月

「無慙愧」は名づけて「人」とせず。名づけて「畜生」とす。(「涅槃経」)
 慙愧は恥じらいの心、悔ゆる心である。

 今月の言葉は、涅槃経というお経のなかに説かれているものです。文中に出てくる「畜生」とは、人という身を生きていながら、主体性を失い、他人やものごとに支配されて、自分が何をすべきか、何をしているかがわからない心の状態を、首に綱をつけられ、引きずられている家畜のように生きていることから、「畜生」と言われています。

 涅槃経のなかでは、父である国王を殺し、母である后をも殺そうとして、大きな苦悩のなかで、もがいている王子阿闍世のすくいを説くなかに今月の言葉が出てきます。この話のなかには、親を殺す子の姿が描かれています。その事を思うと、現代の社会に起きている無差別殺人や親殺し、子殺しの実態は、決して無関係ではなく、同じ人間の姿が見えます。この話は、お釈迦さまがおられた、約2500年も前のものですが、そこには2500年経っても変わる事のない、私達人間の姿が表されています。

 今回この随想を書くうえで、とても苦心したのが、この言葉がわが身を問うているという事になかなか気付くことができなかったと言うことです。経典のなかの話や、現代起こっている無差別殺人や親殺し、子殺しの事件を聞けば、「なんてひどいことをするんだ」という第一声を出してしまいます。しかし、そのふとした発言の基となっているのが、「自分は絶対にそんなことはしない」という心です。この心が実は、自分が何をすべきなのかが見えていない、畜生そのものの姿なのです。

 日頃、なにげなく「自分のことは自分がよく知っている」という思いをもって生活しています。しかし、そのことが実は、ものごとを他人事のように捉え、主体性を失い、迷っている畜生の姿でしかなかった自分を今月の言葉から教えられたことです。

(立白法友)

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