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先祖を思う心は わがいのちの 深さを思う こころである

平成23年9月

先祖を思う心は わがいのちの 深さを思う こころである

 8月はお盆、9月はお彼岸、日本の年中行事の中に先祖を偲ぶ仏事が組み込まれていることは、とても有り難いことです。忙しく都会ではたらいている兄弟や親類もお盆には故郷に帰省し、御内仏に参りお墓にも参りに行く。そういう日本人の習慣にまでなった姿に、「仏さまに手を合わせる人生をどうか送ってほしい」という先祖の願いが届いているような気がします。

 特にお墓参りでは、亡くなった方々の生前のお姿を感じながら、お参りされたのでないでしょうか。亡き先祖の方々の御縁の中で、私が生まれ生きてきた。そしてその全体が生かされてきた、という感情が生まれてくるのも自然な事でありましょう。

 今年、東日本大震災が起きた2日後、私の家で五十回忌の法事を勤める御縁がありました。私にとっては曾祖父の法事です。我が家の古家は水車小屋で、曾祖父は陶土や米を碾く仕事をしながら農業に従事し、数頭の牛を飼いながら生きてきた人と聞いています。

 五十年前、曾祖父が命終した頃は、宗祖の七百回御遠忌法要が勤まる時期でした。曾祖父は若い頃から仏縁に恵まれ、亡くなる二、三年前には長崎教区の御遠忌法要の役員も務めておられて、家には宗門から頂いた感謝状があります。私が生まれる前からお念仏の教えを頂いていた方がおられたんだと、有り難いばかりです。しかし大事な事は、先祖から受け継いできた念仏の伝統を、自らが証明していく生き方が求められている、という事ではないでしょうか。

 自分にとって曾祖父は五十年前の人ですから、全く会ったこともなければ言葉を交わしたこともありません。この度の法事で知らされたことは、生活を通して出会ったことのある先祖は、ほんの一握りであるということでした。どんな人にも先祖はいます。そして先祖は数え切れないほどの方々がおられます。その中の1人でも欠ければ私は生まれてこなかった。私が生まれた事の不思議は、私の思いでは知ることが出来ない大きな事です。だからこそ私のいのちは、目には見えない深さとつながっているのです。

 忙しい中にも時間を作って御内仏に参り、お墓に参る。その様な先祖を思う心が大きなきっかけとなって、我が身を問い、我が心を問い、我が深きいのちの歴史の中に先祖からの「つながり」や「はたらき」を実感していく。この度の彼岸はその様な御縁にしていきたいものです。

(貢 清春)

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