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浄土にて待つ (廣瀬 杲)

平成24年2月

浄土にて待つ (廣瀬 杲)

 この「浄土にて待つ」という廣瀬先生のお言葉は、親鸞聖人がお弟子に送られた手紙を編集した「末燈鈔」という書物の中に出てくる言葉です。

 「この身は、いまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならず待ちまいらせそうろうべし」 

 このお手紙は、親鸞聖人が90歳で亡くなられる2~3年前にお弟子に宛てて書かれたお手紙です。私があなたよりも先に往生することは定まっているので、浄土でかならずかならず待っています、という内容です。このお言葉は、この命終わった時、浄土で待っていてくださる人がいるという安心感があると同時に、どこか温かさや優しさが感じられる言葉です。

 では、「浄土にて待つ」という「浄土」とはどこにあるのでしょうか。その「浄土」という世界を、廣瀬先生は次のようにおっしゃっています。

  浄土というものはわれわれが未来に夢見る単なる理想の世界でなくして、むしろ一  刻一刻生きていく中に開かれてくる世界なのでしょう。もっと言葉を換えれば彼方から私たちを迎えてくれるような世界、そういうものが本当の浄土なのです。

 私たちは「浄土」と聞くと、亡くなってから行く世界であると考えます。だから、今現在において、「浄土」と言われてもピンときません。しかし、廣瀬先生は「生きている中に開かれてくる世界」が浄土であると言われています。少し難しい表現ですが、浄土とは、私たちが考えているような死後の理想郷ではなく、日々の生活の中で感じ取っていく世界なのです。

 以前の掲示板に「生きているということは 死ぬいのちをかかえているということ」という言葉がありました。そうであるならば、「浄土」の世界も日々の生活とは無関係ではありません。そのことを直接教えてくださるのが、亡き人ではないでしょうか。浄土でかならず待っていてくださる亡き人を通して、待たれている私はどんな生き方をしていけばいいのか、常に向こう側から問いかけてくださっているのです。
 信國淳先生は、

  私は浄土に行く。・・・中略・・・私が浄土へ往くという理由は簡単だ。私は今夜念仏して浄土へ往く人をはっきり見てきたんだ。私はこの人を信じる。だから私も浄土へ行く。・・・中略・・・さあ、君はどうするか?しかし、それは君自身の決定すべき問題だ。

 とおっしゃっています。これは信國先生が奥様に対して話されている言葉ですが、先生は、自身の生き方をお念仏申す生活であると言われています。そして、念仏して浄土へ行く確信がそこにはあります。しかし、その中には「自分で決定」するという厳しさも持ち合わせているのです。それは、浄土へ行くことを自分で決定するということではなく、本当に私は浄土へ行くのだろうか、亡き人は本当に浄土へ行かれたのだろうか、という自身の迷い、疑いに対する厳しさがそこにはあります。なぜなら、そういう迷いや疑いは亡き人を仏として見ることの出来ない私がいるということだからです。そして、その迷いや疑いを持つ自身と向き合わせていただき、必ず浄土に生まれて仏となる身であるということを教えてくださるのがお念仏の教えであり、亡き人のお姿なのです。

 廣瀬先生は、昨年末に亡くなられました。私は「浄土にて待つ」という廣瀬先生のお言葉を、温かさと厳しさを持った言葉としていただきました。

(深草 教子)

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