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人間は 自分は絶対に正しいと思い込んだ時に 最も残酷な事をする (司馬遼太郎)

 「人間は 自分は絶対に正しいと思い込んだ時に 最も残酷な事をする」

                                   司馬遼太郎

 今も昔も、親は子育てに悩むものです。自分が親に育てられた体験はあっても、自分の子供の教育となると何でも初体験となります。子育てで分からない事があれば、今まで子育てをしてきた自分の親や、子育ての先輩に相談し、育児の悩み事を聞いてもらいながら親として育てられていきます。しかし現代は核家族の生活や、横のつながりが希薄なために、育児書やインターネットが相談役を務めてくれます。もっとも情報が多すぎて何が正しい事なのか分からない事がありますが、その時々の最善の選択をし問題を解決しようと試みます。しかし、思い通りには行かない事の方が多いようです。そんな時、自分自身はどんな姿をしているでしょうか。

 私自身も経験のあることですが、他から得られる情報や今までの経験、その時々の善悪の判断で「正しい」と思ったことが相手(子供)に通じなかった時に、一瞬にしてカッとなり「阿修羅」に変貌します。「我を忘れる」とはこの事を言うでしょう。罵声を浴びせ、以前しでかした失敗までも持ち出し、徹底的にやっつけようとします。それでも言うことを聞かない時には手が出ることも・・・。

 その様に、自分の「正しい」という思いが相手に伝わらず、思い通りにコントロールできない子供に対して、叩いてしまう場合があります。その時子供は一時的に親の言うことを聞きますが「(親の)正しい理由さえあれば叩いても良い、残酷な事をしてもかまわない」ということが伝わるのです。そしてその子が、他人との関係の中で思い通りに行かなかった時には「叩く」という関わり方をしてしまう。「よい子、やさしい子に育つように」と願いながらも、実際は人を傷つけることを教えているのが自分自身ではないかと知らされます。

 今月の掲示板の言葉を通して、自分勝手な正義を振りかざしながら、他を傷つけていることも気がつかない、その自分の姿を知らされました。また、これまで日本や世界で起こってきた戦争・弾圧・差別の歴史もまさに「自分は絶対に正しい」と思い込んだ人間の歴史そのものであります。自分は絶対に正しいという思い込みが強いほど、他人の悲鳴や叫び声が聞こえなくなる、そういう恐ろしさを知らなければなりません。

 それでは一体何が「正しい」ことなのでしょうか。決して「正しいと思い込むことをやめましょう」と言うのではありません。本当の「正しい」こととは、私を私以上に見つめ、私を知り通して下さる教えそのものを言うのだと思います。しかし残念ながらその教えは、人間の智恵の中からは出てきません。人間の知恵を超えた仏陀(覚者)の教えこそが、私たちの本性を照らし出します。そして私自身の残酷な姿さえも包み隠さず教えてくださいます。

 親鸞聖人はその教えを阿弥陀の光明として、「智慧の光明はかりなし」と和讃されています。私たちのたのむべき世界は阿弥陀の光であり、それこそが真実の依り処となるのであります。そして念仏は、弥陀の光明を日常の中で確かめさせて頂く、仏様からの呼びかけでもありましょう。

                              (貢 清春)

 

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