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人間とは 自分で自分の始末を 仕切れぬ者の 別名である (高光大船)

    人間とは
    自分で自分の始末を
    仕切れぬ者の
    別名である
             高光大船
 
 今月の言葉をいただきますと2つのことが思われます。1つは、人間の努力次第で始末の付く事。2つは、人間の努力や知識では絶対に始末が付かないこと、の2つです。1つ目は日常の中での後始末です。
 
 「ちゃんと後片付け(後始末)ばせんば」と、厳しく言われていた親や祖父母の言葉を思い出します。子供の頃はおもちゃは出しっぱなし遊びっぱなしで、散らかしてばかりでした。そういう自分も親になり、今度は子供に「片付けんば」と言っています。片付けている子供の姿が、自分の子供の時の姿と重なって見えてしまいます。
 
 日常の中で、自分がしたことの後始末はしなけれななりませんし、出来ることです。しかし人間には自分の努力や知識では絶対に始末が付かない、大きな問題を抱えていると、高光大船師はこの言葉で教示していただいています。それは身から起こる根本的な苦悩、すなわち生・老・病・死という問題です。
 
 この苦悩は私たちの力ではどうすることも出来ない、始末も解決も出来ない苦しみといえます。人間の知識が発達しても、医学が進歩してすばらしい薬が開発されても、死そのものを無くす事は出来ません。老化を予防したい、実年齢よりも若く見られたい「アンチエイジング」という言葉がもてはやされていますが、誰でも平等に歳は取っていきます。病気は嫌だからと言って、病気になってしまった身から逃げることも出来ません。
 
 自分の身でありながら、自分の力ではどうしようも出来ない、知識では解決の付かない身を生きているのが現実です。
 
 生きることに執着し、若く、健康であることだけが自分自身である、と思い込んでいるのならば、人生における安心はありません。いつかはその思いも崩れ去っていきます。そういう人間の立場を拠り所とせず、逆に病にあっても病んでいける、老いの身を生ききっていける、死もまた私であると安んじる世界を依り処にしなければなりません。
 
 それは、仏陀の正法を聞く事によって開かれます。聞法によって、今までの自分の思いがひるがえされるという内容があるのです。その事を廻心といわれ、転成ともいわれます。本当に立つべき場所を見出し、私を支えている根拠を発見することができれば、どんな苦難に遭おうとも、我が身を満足し安心して生きていける事が出来るのでありましょう。
 
 自分の力では自分の始末は出来ない、その事に深く頷くことから始まります。そこからはじめて、自分の力ではない力「仏の力(他力)」が生きる頼りとなるのです。
                                            貢清春
 

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