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念仏申すということは 念ぜられている自分のいのちに 出遇うということ (宮城 顗)

   念仏申すということは 

     念ぜられている自分のいのちに

       出遇うということ      宮城 顗

 今月1月22日より7日間、親鸞聖人の命日を縁として御正忌報恩講が厳修されました。親鸞聖人の御命日を縁として勤められる法要ですが、釈尊から親鸞聖人にまで、そして、親鸞聖人から私にまで到りとどいている念仏の歴史に遇うことが願われ、大切につとめられる御仏事です。

 『歎異抄』の第二条において親鸞聖人は、関東の同行たちを前にして「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」といいきられます。

 関東から親鸞聖人をたずねた同行たちの関心は「念仏は浄土に生まれる種なのか、それとも地獄に落ちる悪業なのか」ということにありました。念仏の品定めをしているのです。「念仏していつの日にか浄土に往生して仏になる」と、階段を上るような、自分を向上させるための手段として念仏をとらえていたのでした。その手立ての念仏がいろいろな風評、自分自身の自信のなさで揺らいでしまうと、往生も成仏も夢物語になります。「念仏がたしかな手段なのかはっきりさせなければならない。」そういう焦燥感にかられ、京都の親鸞聖人をたずねてきたのです。

 しかし、関東の同行を待っておられたのは念仏についてその利益、効果や有難いいわれを講釈するのでなく、ただ、仏の教えにしたがい、「よきひとのおおせ」に生きる親鸞聖人でした。法然上人と出遇い、「生死出ずべきみちをばただ一筋に仰せられ候いし」、人間として生きることはどういう答えを持っているかでなく、本当に自分自身に深く頷いて生きていけるかという問いをもち続けること、その言葉に出遇い、念ぜられている自分のいのちの問いかけに真向かいに生きておられる親鸞聖人でした。

 『御伝鈔』に記されている親鸞聖人の臨終を伝える、「ついに念仏の息たえましましおわりぬ」という言葉は、生活の片手間に念仏をされていたことをあらわしているのではありません。念仏を物のように自分の前において品定めされていたのではありません。念ずる仏のはたらきのなかで、念仏の空気の中で念仏の呼吸をして生き、命終えられていったことをあらわしているのではないでしょうか。

 『念仏は「えらばず、きらわず、みすてず」の阿弥陀仏のこころが私たちのもとにきて、南無阿弥陀仏の念仏となって私どものために跪(ひざまず)き、率先して念仏しているのです。』 狐野秀存先生

 掲示板の宮城先生の言葉は、私たちが念仏申すということは、救われる手段としての念仏ではなく、「どんな境遇であっても、あるがままを自分の本当の人生として選び取りなさい」と呼びかける仏の御名に願いを聞くという、念仏の中で生活された親鸞聖人の姿勢を表す言葉です。   

                       深草誓弥

 

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