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人のわろき事は、よくよくみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。

 人のわろき事は、よくよくみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。

                           『蓮如上人御一代記聞書』

 

 今月の掲示板の言葉は、『蓮如上人御一代記聞書』に収められている言葉です。

  「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。わがみにしられてわろきことあらば、能く能くわろければこそ、身にしられ候うと思いて、心中を改むべし。ただ、人の云う事をば、よく信用すべし。わがわろき事は、おぼえざるものなる」由、仰せられ候う。

 (現代語訳) 他の人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いことは気づかないものである。もし自分で悪いと気づくようなら、それはよほど悪いことだから、自分でも気がついたのだと思って、心をあらためなければならない。人が教えてくれることに耳を傾け、素直に聞き入れなければならない。自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」と、蓮如上人は仰せになりました。

  「他者の悪いところはよく目に付くが、自分の悪いことは気づかない」と蓮如上人は語られます。この言葉のとおり、私たちの眼は常に外に向いていて、それぞれが評論家のように、自分の目の前の出来事、人物に対して、様々に評価を下しています。しかし、私の眼球が外は見えても、私自身を見るときには鏡が必要であるように、自分自身のことはなかなか問題にできないのです。

 私は「わがみのわろき事は、おぼえざるものなり」というこの言葉が、親鸞聖人が「自力」として教えておられることと深く関係していると思います。聖人は、『一念多念文意』のなかで、自力について、

 自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり

 と語られています。自力は自分の力ということでなく、「我が身、我が心、我が力、我が行為」を依頼し、正当化して生きる、私たちの自己絶対化のこころです。

 この自己正当化、自己絶対化という内容をもつ自力のこころで、私と他者を分け、私が「よかれ」と思った善意のこころで人を傷付けたり、無意識に人を踏みつけるのです。

 私の妻がまだ妊娠中のころ、生まれてくる子供に「五体満足で生まれてほしい」と思ったことがありますが、そのこころは障害をもって生きている人に対しての強烈な差別心であるのです。その差別心は障害をもって現に生きている人から照らし出されるのです。

 「ただ、人の云う事をば、よく信用すべし」、「人が教えてくれることに耳を傾け、素直に聞き入れなければならない」と蓮如上人が続けて語られていることは、「あなたの自力のこころの冷酷さを照らし続ける声なき声に耳を傾けなさい」ということであるとおもいます。 (深草 誓弥)

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