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自分に都合がよければ 相手の悪も善にみえ 自分の都合が悪ければ 相手の善も悪にみえる (毎田周一)

自分に都合がよければ 相手の悪も善にみえ

 自分の都合が悪ければ 相手の善も悪にみえる 毎田周一

 

 自分に都合のいい人は「良い人」だとほめ、自分に都合が悪くなると「悪い人」だとけなして言うように、その時々の自分なりの評価をして相手を価値付けをしてくこころがあります。人だけでは無く自然環境にも同じ様に、畑に種まきした後の雨は「恵みの雨」で、あまりにも降り続けば「悪天候」です。さらにおもしろいのは、同じ事実なのに受け取り方が人それぞれ違うという事もあります。恵みの雨と悪天候が同時に他人の中で起こるということです。何が良くて何が悪いのかは「考え方の違い、その時の都合」でバラバラになるのです。

 何故この様なことが起こるのでしょうか。私達はそれぞれの過去の経験を基準にして「良し悪し」を決め、その事実が今と未来にどのような損得をもたらすのか、その価値付けを瞬時に判断します。そしてその良し悪しの価値付けを、「自分のものさし」として独自に造り出し、その「自分のものさし」を常識として大事にしながら生きているのです。

 それが人間として当たり前の姿としてあるように思いますが、このこころを当たり前にしてしまうと、良し悪しという自分の評価・ものさしだけが大事で、実際に目の前で起こっている事実が認められなくなるのではないでしょうか。

 そして自分にとって都合の良い相手、都合の良い事実は受け入れますが、都合の悪い相手や現実に対しては、拒否し排除しようとします。都合が良かった時には自分の手柄にして傲慢になり、都合が悪ければ恨みと愚痴しか出てきません。一つ一つの事実が受け止められず、一瞬一瞬の出会いが尊い出会いにならず、何に対しても向き合うこと無く過ぎてしまいます。存在自体は自分の都合の善し悪しを超えて現実を生きているのですが、こころは認めていないのです。

 仏陀を「自在人」という名で呼ばれることがあります。何も縛られることがない、自由自在なこころを持つもの、という名前です。よく他人によって縛られていると云いますが、不自由にしているのは自分自身のこころではないでしょうか。良し悪しのこころによって自分自身が縛られている、そのこころを仏陀は「煩悩」であると教えられ、仏陀はその煩悩の絆を断ち切った自由な人、という意味で自在人なのです。

 その時々で自分の都合の良し悪ししか思わない私達に、「今の現実を生き、向き合いましょう」と呼びかけるはたらきがお念仏です。お念仏したから、仏法に出会ったから、その御利益で良し悪しを分別するこころが全て無くなるわけではありません。お念仏のはたらきに会えば、良し悪しのこころに固執していることは、何の頼りにならないと気付かせてもらうのです。そしてそれぞれの事実が私を育てはぐくむ「ご縁」として頂戴できるのではないでしょうか。貢 清春

 

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