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拠り所なくしては 人間は生きていない (広瀬 杲)

拠り所なくしては 人間は生きていない  広瀬 杲

                         

 今月の掲示板の言葉は「よりどころ」ということについて語られたものです。人間は必ず何かを拠り所として生きているということですが、日ごろ私たちは何を拠り所として生きているのか。そういうことを問いかける言葉ではないでしょうか。

 私たちの暮らす文明社会は、人間の知恵が作り出した社会です。より早く、快適な生活を目指して、知恵を振り絞って作り上げてきた社会です。

 日ごろ私たちは自分の理性、自分の知恵、知識というものを拠り所として生きています。ですから、一般的に理性的に物事を考えること、つまり私達が自分の知恵を十分に働かせることが賢いことであると思っています。その逆に十分に知恵を働かせないことは愚かなことだとされます。私たちは自分の知恵を拠り所とし、自分の思いに従って色々な行為、生活をしています。

 しかし、その人間の知識には大きな闇が潜んでいるのです。ひとたび戦争になれば、その知恵、知識はたくさんの人を殺戮するために使われ、そしてあたかもそれが正義、正しい行いであるかのように正当化するのです。同じ人間である他の国の人びとを殺戮するために人知の限りを尽くして核兵器を作り出し、その抑止力で安全を守る。安全を求めるこころが破壊を求めるこころとなる、まさに矛盾が現実に現れているのです。人間の知恵は不可解としかいいようのないものです。

 阿弥陀の智慧の光は人間の知恵を超えているという意味で、不可思議と教えられます。それゆえに人間の知慧のもつ闇を照らし出し、人間の愚かさを知らせます。法然上人は自らを「愚痴の法然房」といい、親鸞聖人もまた「愚禿親鸞」と名告られました。「智慧第一の法然房」と人びとから讃えられた法然上人自ら「愚痴の法然房」と語られたことは、人間の知恵を超えた阿弥陀の光をうけて、その光の中で自らの愚かさをよくよく知ったということを示すものです。人間が自らの知恵を誇り、拠り所とすることの悲惨さ、その愚かさを知った名告りです。

 そのことを受けて親鸞聖人は最晩年の88歳の時に書かれたお手紙に

故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いし  (『真宗聖典』603頁)

(今は亡き法然聖人が「浄土の教えに生きる人は愚者になって往生するのです」といわれたことを確かにうけたまわりました。)

と語られています。そして自分の愚かさを照らす十二の光に「帰命せよ」と和讃をおつくりになられました。

人知の闇に気付かぬ限り、私たちは飽くなき富の追及「貪り(むさぼり)」と戦争「瞋り(いかり)」のこころに捉えられてしまいます。ときに人知の驕りは厚い壁となり、一切の人びとを照らす阿弥陀の光に触れることを妨げます。その私たちにこそ、親鸞聖人は阿弥陀の智慧の光を仰ぐ者となることを念じておられるのです。深草誓弥

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