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自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にして 思考を停止しない 考えつづけることが 今 求められている

自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にして

思考を停止しない 考えつづけることが 今 求められている

ハンナ・アーレントという人物をご存知だろうか。1906年にドイツで生まれ、75年にアメリカでなくなったユダヤ人政治哲学者である。『全体主義の起源』などが代表的な著作だが、私も先日彼女を主人公にした映画『ハンナ・アーレント』のDVDを見るまではその思想、生涯に触れることはなかった。

 映画は、アーレントの生涯ではなく、彼女の著作で言えば『イェルサレムのアイヒマン』に焦点を絞ったものだ。1960年、数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者アドルフ・アイヒマンがイスラエルによって捕らえられる。アーレントは雑誌『ニューヨーカー』に裁判の傍聴記を書きたいと申し出て、イスラエルに向かう。

 裁判でアイヒマンは「命令に従ったまでです」と語る。アーレントは「アイヒマンは想像したような凶悪な怪物ではなく、平凡な人間だったのではないか」と考え、「悪の凡庸さ」について書く。「数百万人のユダヤ人を強制収用所に送り、殺害したナチスドイツ。その一翼をになったアイヒマンはさぞかし冷酷無比な悪魔のような男に違いない。だれもがそう思いたがった。イスラエルの検察官もその悪魔としてのアイヒマンのすがたを暴こうと躍起になった。ところが裁判を通して浮かび上がったのは、組織の歯車として働く小役人のような男だった。」とアーレントは語った。

 記事は「アイヒマンを擁護するのか」とバッシングを受ける。それにたいしてアーレントは学生に対する講義のかたちで反論を試みる。講義の中でアーレントは「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。」

「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。」と語った。

 アーレントがアイヒマンの中に見た「悪の凡庸さ」は私たちの中にもあることだ。掲示板の言葉にある「自分自身の驚きや疑問や違和感」という感覚を私は日ごろどうしているだろうか。「おかしい」と感じても、「自分ひとり悪者になりたくない」、「皆がそういっているなら、私もそうしよう」、そうやってその感覚にふたをして、何事もなかったかのように同調していく。そしてそのようにすることが美徳のようにさえ考えている。自己保身のために、ただ大きな流れに身をゆだねていく。しかし、そこにアイヒマンと同じ「思考を停止して、考えることを止めた」者が誕生する。このことはフランク・パヴロフの『茶色の朝』の物語にも描かれている。

 アーレントの訴えた「悪の凡庸さ」への危機感はそのまま現代の日本に通じる。政治への無関心は投票率の低下が物語る。外務大臣は先のISによる人質殺害事件を受けて、「人間のすることではない」と語ったが、果たしてそうなのか。そこで思考停止してしまうことが、はたして、後藤さんが危険を冒して、彼らを理解したい、世界に伝えたいと思ったことと、はたして同じ感情なのか。

 今、私たちは久遠の昔に傷付けあい、殺し合いである地獄からの解放を、人間に誓われた如来の本願に「あなたはどのような世界を願い求めるのか」と問われている。 (深草誓弥)

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