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戦争は終わっていない。なぜならば、戦争の罪が人間の根源的な罪として問われてこなかった。人間の持つ無明の罪として。  武宮聰雄

戦争は終わっていない。
 なぜならば、戦争の罪が人間の根源的な罪として問われてこなかった。
   人間の持つ無明の罪として。  武宮聰雄

 今から20年前、長崎教区原爆50周年非核非戦法要が勤められました。その法要で正蓮寺前ご住職、武宮聰雄師が記念法話を勤められ、その講録が「非核非戦-法蔵菩薩の涙-」として本願寺出版部から再販されました。今月の言葉はその中の一節です。

 武宮師が復員してから後は、住職が戦死されていた正蓮寺に入寺されました。初めての法務は戦死者の法事だったそうです。何度もそのご縁に出遇う中で、戦火に焼かれた方々の苦しみ、遺族の悲しみの声を聞き続けてきたと本の中で語られます。その中で「お前にとって戦争とは一体何であったのか」という問いを頂いたと、述懐されます。

 私達は、第二次世界大戦が終結し、日本に平和が戻った記念日を8月15日「終戦記念日」として名付け、追悼の式典が各地で行われます。戦争は終わり二度と繰り返してはならないと、この平和な日本を守っていこうと語られますが、武宮師は「戦争は終わっていない」と叫ばれます。なぜならば戦争は、人間の知恵の根っこにある「無明」が起こしてきたからです。

 「無明」とは、真実の智慧に暗く、仰ぐべき光(教え)を知らないということです。「無明」は人間の知恵を最高のものにして、人間の善悪の判断や価値観は間違いないものにしていくあり方を言います。いつでも自分の都合によって善悪を決め、悪は徹底して排除し、善き者だけを迎え入れる「自是他非」の心。そして自分だけは絶対に間違わない者だと思い込んでいる姿を「無明」と教えられます。それは戦争を起こす心そのものであります。

 さらに人間は、起こす戦争が間違いないこととする為に、「聖戦」という言葉を使います。それは戦争の「罪」感じさせない、思わせない為の装置であります。それによって人殺しや暴力が正当化されていきます。戦地では残虐な殺戮行為が起きていても、それが正義になっていくのです。

 戦争を起こす根源的因である「無明」がいつでも人間の中にあることを教えられれば、戦争は国のせいだとか、時代のせいだとか、他に責任転嫁することは出来ません。戦争を起こしてきた人間の罪「無明」を問わない限り「終戦」は無いのです。事実としては「敗戦」と言うべきであります。

 親鸞聖人が仰がれた阿弥陀仏の智慧の光は、人間存在の深い闇「無明」を破るはたらきがあり、譬えれば太陽や月の光よりも超えている「超日月光」であると述べられています。真実の智慧のはたらきは、一切を照らし平等に迎え取る智慧です。その光に出会えばこそ人間存在の深い闇を知らされ、仰ぐべき光明の世界が人類に開かれていくのでありましょう。

 福浄寺の本堂には「非核非戦」の額を掲げられてあります。この言葉は、私たちの「戦・核」の在り方を「非―あらず―」として見つめられ、自己を問い直していく阿弥陀仏の言葉です。私達は常にこの言葉を仏言として聞き続け、私自身が念仏申す人となることが願われています。  (貢 清春)

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