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自分に非があること、自分の考えに誤りがあること、自分の視線が偏向していること、これらを認めるのが大の苦手、自分の考えに固執する。

「自分に非があること、自分の考えに誤りがあること、自分の視線が偏向していること、
 これらを認めるのが大の苦手、自分の考えに固執する。」

 「自分に非があること、自分の考えに誤りがあること、自分の視線が偏向していること」、これらを認めることが大の苦手の私。「私は正しい、自分の考えに間違いはない、みんな私が見て思うようなことを思っている」と何の疑問も持たずに真逆の「自分は正しい」、「わが身一つが可愛い」というこころに立って生きています。真蓮寺住職の寺本温先生はこのことを「茶碗の譬え」をもって、繰り返し語られています。

 亡くなられたお父さんが寺本先生によく語られていたそうですが、「他人が茶碗を割ったときは「茶碗を割った」と割った責任者がはっきりするような言い方をするが、自分が割ったときは「茶碗が割れた」と犯人が不明確で、いかにも茶碗が勝手に割れたかのように言う」という話です。このように「私は悪くない」、「私は正しい」というこころは、もはや私の身にそなわったものです。自己正当化はいざという間際に飛び出してきます。「そういうことを思わないようにしよう」というような反省や後悔は間に合いません。

 さらに掲示板の言葉にあるように「これらを認めるのが大の苦手」ですから、どれだけ自分に非があり、考えに誤りがあり、偏ったものの見方をしているとうすうす違和感を感じていても、認められず、「あなたは間違っていない」、「あなたは悪くない」といって、慰め、癒してくれるものを求めるのです。

 しかし、この私のもつ「自分は正しい」、「わが身一つが可愛い」というこころは大きな問題をはらんでいます。私の「視線の偏向」、つまり好きなものはよく見え、嫌いなものは悪く見えるという偏見は排除行為と結びつき、差別となります。偏見は事実有るものを無いとし、無いものを有ると認識することです。排除は事実そこにいるのにいないようにしてしまうことです。この仕組みをもっているため、差別は差別する者の側に罪悪感を抱かせません。なぜなら、私たちが他者を傷つけ、「悪いことをした」と感じるのは、その他者の存在を「そこにいる」と認めるときのみだからです。

 仏法はそのように差別を生みだす根っこにある自己正当化の思いを「自是他非」と教えます。「自分は正しい、他が間違っている」という、事実に反し、さかさまになった意識を言い当てる言葉です。このどこまでも自分ひとりを善きものとしてたてようとする限り、ときに「善きもの」でおれない私とも、事実目の前にいる他者とも出会わせません。いかに私の固執があるがままということに頷けさせない世界を作り出しているか。これが私のもっている罪でないでしょうか。

 その様な私たちに、阿弥陀仏は念仏によって本願に遇うことを選ばれました。自分の誤りに頭を下げない、誤ることを拒否する私に対して「煩悩具足の凡夫、それがあなただ」と呼びかけ、純粋に批判することで、自(おの)ずからこの身の事実に頭の下がる世界を願われています。お内仏を中心とした生活を大切にしてきた歴史の意味を、大切に受け取らなければなりません。   (深草誓弥)

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