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人間に生まれた者は 必ず深い いのちの願いを 持っている (和田稠)

人間に生まれた者は 必ず深い いのちの願いを 持っている (和田稠)

                                     
 人間が他の生物と異なるのは、「意味」を求めるということです。英語では「Why」(なぜ、どういう意味があるのか)という問いです。私達が今日まで生きてきたということ、その事実だけで自分の存在の意味を感じたりしますが、「私がここにいる」ということの意味を求めるのが人間です。なぜ人間は意味を求めるかといえば、死があるからです。「他の動物にも死があるじゃないか」と思われるかもしれませんが、私達はどこかで自分は「死のある生を生きている」ことを学びます。死に向かって生きているがゆえに、逆に生きていることの意味を問わずにおれないのです。「なぜ生きるのか」という問いです。

 死をどこで学ぶのかというと、自分の肉親、兄弟など縁のある方の死を通して、自分も死ぬのだと学ぶことがあります。葬儀を重く、大切に勤めてきたのは、死を学ぶことを通して逆に「自らが生きている意味は何か」という問いが掘り起こされてきたからだとおもいます。

 日ごろ私達は「How to」(どう生きるか)という関心で生きています。「損得」損にならないように、得になることを求めます。「快不快」気持ち悪いことより、気持ちの良いことを求めます。「善悪」悪いことより善いことをしよう、と。大体毎日求めていることはこれで説明できるのでないでしょうか。

 私達のその気分は「なぜ生きるのか」という問いを呼び起こす死を隠そうとしています。医療技術の発達は死を出来るだけ見えないように遠ざけました。かつての葬儀は地域ぐるみでした。死人が出れば墓場の土を掘り、皆で荼毘所まで運び埋葬していた様に、葬儀は地域の手助けを必要とし、死を身近に感じ取っていたのです。しかし現代では、直葬ということがいわれるように、直接火葬場に運ばれるようになりました。人間が作り出した文明は、進歩した、発展したといいますが、死を見えなくしたのかもしれません。私たちの日ごろの気分は「死の無い生」でいたいのです。しかし人間そのものは変わりません。死は絶対にあるのです。

 「死のある生を生きる意味は何か」この問いこそ、掲示板の「人間に生まれた者は必ず深い、いのちの願いを持っている」といわれている「いのちの願い」とつながってくるのでないでしょうか。「死のある生を生きる意味は何か」この問いに魅入られた人は、その問いを持たなかった自分には戻れなくなるはずです。知らないふりや、隠したり出来ても消せません。そのことを象徴的にあらわしたのが、法名の「釈」ではないでしょうか。

 仏教のさとりを開かれた釈尊は、インド北東の釈迦族という部族の出身でした。「釈」という文字は、釈尊の「姓」である「釈迦」の省略です。今から2500年以上前に王族の子として生まれ、何不自由ない生活をされていた一人の王子は、街に出て生まれる人、老人、病人、そして亡くなる人を見られ、自らも老いるべき若さを生きるものであり、病むべき健康を生きるものであり、死のある生を生きる者であると深くうなずかれました。そして道を求められます。「死のある生を生きる意味は何か」と。法名の「釈」は人間誰しもが釈尊と同じ問いを持つものであることを呼び起こす、深い願いをあらわしたものだと受け取れるのでないでしょうか。 深草誓弥

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