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生かされているということは 結論ではなく 出発点である  池田勇諦

生かされているということは 結論ではなく 出発点である 

                                    池田勇諦

 人間はおよそ75兆個の細胞でできているといわれます。75兆個という数がどれくらいかというと、これはもう想像もできません。今も心臓が動いています。心臓は1日に10万回も動いているそうです。しかも1回たりとも自分で動かしている人はいません。さらに腎臓も肝臓も肺も自分では動かしていません。まして、自分で心臓や肝臓や腎臓を作って生まれて来た赤ちゃんは一人としていません。さらにその身体は他のいのちを殺して食べ、はたらくことができます。一人の人間が生まれ、そして生きているということは、とてつもなく大変なことであり、まさに有り難いいのちを生きていると医学的にもいえるのですが、この「生かされている」ということをどのように受け取るのかという問題を提示しているのが、この掲示板の言葉「生かされているということは 結論ではなく 出発点である」ということであるとおもいます。

 生かされているということを結論にするということはどういうことでしょうか。自分が支えられて生きているということを知ることは豊かなことです。そのことを知ったところから生まれたのが「おかげさま」という言葉でしょう。しかし、「おかげさま」ということは仏法に遇わなくても、先に述べた医学的なことでもいえることでないでしょうか。生かされているということを結論とするというのは、「今日もおかげさまで生かさせていただきました」という感謝で終わってしまうことです。おかげさまで終わってしまう、そのことが実は自己満足でないのか、という問いかけが掲示板の「結論ではなく、出発点」ということでないでしょうか。

「私は生かされて生きている」で終わらないで、

「ではこのいのちは何を求めているのか。自分勝手に決めた満足でない、私を生かしているものも満足する、本当の満足は何か。」と問うこと。

「周りに支えられて生きている。」で終わらないで、

「私は私のために犠牲になっているもののことを顧みたことがあるだろうか。その責任を果たしているだろうか。」と問うところに、「生かされている」を結論ではなく出発点としていけるのでしょう。「生かされて生きている私は何を求めているのか」このメッセージに応えうるものが仏法です。自分の中からは自己満足の思いしか出てきません。

 「礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命は必ずこれ礼拝なり」

親鸞聖人は『浄土論註』の言葉を大切に受け取られていますが、この文のこころは「礼拝(感謝)はうやうやしく拝むことではあっても、必ずしも帰命という意義を持たない。それに対して帰命(わがいのちを仏法に投げ出す。仏法に目覚め、仏法に生かされて生きる)は、必ず礼拝というすがたが伴う」ということです。「おかげさま」という感謝、礼拝がおこってくる背景には「帰命」仏法にいつも自己中心にしか物事が考えられない私が常に突き破られ、生かされているいのちが真に求めていることに目覚ましめるはたらきに遇うことがなければならないと教えられています。 深草誓弥

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