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浄土を願うということは この世の懺悔である 金子大栄

浄土を願うということは この世の懺悔である   金子大栄

 1年の年中行事で、3月と9月にはお彼岸があります。春分の日・秋分の日を中日として前後3日間、計7日間を彼岸として各仏教寺院では法要が勤まります。彼岸とは読んで字の如く彼の岸、向こう岸の世界のことを表します。自然現象の中で彼岸の中日に太陽が真西に沈むことから、古来真宗の寺院では西方の浄土に心を向け、浄土からの呼び声を聞き取るための聞法週間として大切にお勤めされてきました。

 彼岸なる浄土とは、自分以上の世界、私の考えや思い以上の世界であります。その浄土の言葉、教えにふれることによって、此岸にいる人間の迷いを破る智慧と、私の本当の願いが教えられます。それは浄土に生まれたいと願う心が知らされるのです。

 ではなぜ私達は浄土を願うのでしょうか。仏説阿弥陀経には西方の浄土を「倶会一処」する世界、倶に出遇う世界であると説かれます。浄土とは、他人に対して思う好き嫌いや利害を超えて、全ての人と出会える世界です。沢山の諸仏方が、その浄土の世界に「念仏して往生しましょう」と呼びかけ勧められています。
 また、仏説無量寿経には地獄・餓鬼・畜生(三悪道)の無い世界であるとも誓われてあります。これは何を意味するのかというと、この娑婆世界は三悪道の世界を作り出し、それによって苦しんでいる私達が生活している。他人との出会いを拒んでいる私達の現実があるということです。
 浄土の世界「倶会一処する世界・三悪道の無い世界」を求めるということは、逆にこの世の現実を見させられ、救われようのない身の事実に頷いていくこととなるのです。

 その身を深く頷き、懺悔するということは、後悔したり反省することではありません。反省や後悔はまじめな心ですがその心の底には、「絶対にしないと思えばしなくてもすむ。しようと思えば絶対出来る。」という我が身への強い自負がひそんでいます。

 懺悔とは「こんなことをしでかすような私です。」と、自身の罪を自覚し、私自身の存在をまるごと受け止めるということです。それは浄土を願い、仏の光に照らし出されているこの身を知らされることなのです。しかしどの様な人であっても、見捨てずに摂め取ってくださるのが、阿弥陀如来のはたらきであります。だからこそ私達は、阿弥陀の浄土を願うのでありましょう。

 浄土とこの世、彼岸と此岸は孤立し対立した関係としてあるのでは無く、互いに関係し合っています。一つの同じ事ではないですが、別々ではない「不一不二」の関係です。浄土を願い求めるということと、この世の姿を見させてもらうということは、同時であります。

 現代、お彼岸中は気候も良く、連休にもなるため、「レジャー彼岸」だと思われていますが、人間の深い願いに応え、自己を知らせていただく、「聞法週間の彼岸」と受け止めていきたいものです。 貢清春

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