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いのちが粗末にされているのではなく いのちに向き合う姿勢が粗末なのだ (佛光寺)

いのちが粗末にされているのではなく
 いのちに向き合う姿勢が粗末なのだ (佛光寺)

 7月初旬には作上がり法要が開催されます。「作上がり」とは田植えの作がほぼ終わった事を意味します。昔から御門徒のほとんどの家が農家だったため、5月から6月にかけての農繁期には寺の法要がありません。その田作りが一段落した頃に勤められる法要が、この作上がり法要です。

 田の土や、水や草木、バッタやミミズ等、大自然の大小の生き物に眼を向け、その働きや恵みを"自然(じねん)"の世界として受け止め、私たちの計らいや思惑、分別を超えた世界によって支えられている事を実感していく機縁として、先祖の方々は作上がりを"仏縁"として勤めてこられました。

 私の家は田んぼの土地があるので、毎年稲作をしています。畔道の草刈りや田んぼの中に入ると、色んな生き物が顔を出します。その虫たちが出てきたときに何を考えるかというと、その虫が作物を育てる為に都合が良いか悪いか、ということです。もちろん都合の悪い害虫は薬を使って駆除をします。現代は様々な農薬が開発されているため、駆除をするにも効率が良く、その為安定して作物を取れるようになってきました。

 作物を作る上で害虫を殺すことは、ごく当たり前の事です。そうしないと私たちは、お米や野菜をいただく事は出来ません。田畑を作ることは、大量の虫たちを殺していくということです。大げさかも知れませんが、その虫たちの犠牲の上に成り立ったいのちを私達はいただいているのだ、と言っても過言ではありません。榎本栄一さんの詩に、

 私はこんにちまで
 海の 大地の
 無数の生き物を食べてきた
 私の罪の深さは
 底しれず 「詩集 煩悩林」

 これは以前も紹介したことのある詩です。榎本栄一さんは、お念仏を申しながら自分自身を深く見つめられたお方です。この詩で、誰もが言い逃れの出来ない「無数のいのちを食べてきた」という、日常の我が身の事実を「罪の深さは底知れず」として懺悔されています。それは単に自虐的視点での言葉ではなく、私が生きてきた中で犠牲になってきたいのちに対する申し訳なさを、生活の中で実感されてきたのだと思います。

 おそらくこの方にとっての「いただきます」は、いのちに対して「ありがとう」よりも「ごめんなさい」の思いの方が強いのではないでしょうか。他のいのちを盗って生きてきた私だからこそ、我が身のいのちをいい加減に軽く扱うわけにはいかない。我が人生が空しく過ぎたら、食べてきたいのちに対して申し訳ない。この様な無数のいのちとまじめに向き合う姿勢がこの詩から感じられます。

 以前、『ちゃんと給食費を払っているのに、いただきますと言わせるとは何事だ』と学校に怒鳴り込んで来る親がいる、という話を聞いたことがあります。また給食の時に手を合わせることは、宗教的行為にあたるとして疑問を投げかける人もいると聞きます。様々な意見があると思いますが、食事の前の「いただきます」は、「あなたのいのちを、私のいのちとしていただいている」ということを忘れないように生活しさいと、先祖の方々のいのちに向き合う姿勢が、食前の言葉として受け継がれてきたのだと思います。

 あなたはどういう姿勢で、どういう態度でいのちと向き合っていますか、生活の中でどの様に受け止めていますか、様々に問われる言葉でした。  (貢 清春) 平成29年7月

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