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「救い」とは 答えではなく 問いがみつかる事である 答えは 一生を決めつける 問いは一生を歩ましめる 

「救い」とは 答えではなく 問いがみつかる事である
 答えは 一生を決めつける 問いは一生を歩ましめる

 今月の言葉をいただいて、自分の中で憶念していた人がいました。その方は現在、71歳を迎えられた星野富弘さんです。中学校教師の頃にクラブ活動の指導中に誤って大けがをされて以来、首から下がマヒし、手足の自由を失われました。以来、車いすの生活をされていますが、入院中に口に筆をくわえて草花の絵や詩を書き始められました。その後作品は公開され、星野さんのすばらしい言葉と絵にふれた様々な人たちは、生きる力と勇気と元気をいただいておられます。その詩の中に、

  「いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
   いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」

という言葉があります。星野さんは入院中、思い通りにならない体をかかえ、生きていることに絶望して、母親に「自分を殺してくれ」と言おうかどうか悩んだこともあったそうです。しかし聖書との出会いが星野さんを大きく変え、私のいのちを生かしている、大きないのちのはたらきに出会っていかれました。

 この詩を公開した後、いろんな人から「いのちよりも大切なものとはなんですか」と質問を受けていたそうです。その時、星野さんは「その答えはこうですよ、と言うことは簡単だけど、きっとそれは意味のないことです。自分で苦しみながら見つけたときにあなたにとって意味があるのです」と答えていたそうです。

 私たちは問いを見つけるとすぐに答えが欲しくなります。しかし答えが手に入ると問いは消えて無くなり一つの答えに執着していきます。そこから別の答えを求めたり、問題そのものを問い返したりすることはありません。その様な私たちの姿を知っておられたからこそ、答えではなく、自分で考える「問う」歩みを大事にされたのだと思います。

 本来私たちの生活する環境には、問いかけがあふれています。なぜ勉強しなければならないのか、なぜ仕事をするのか、なぜケンカをするのか、なぜ差別がなくならないのか、なぜ子どもは親に反発するのか、なぜ他人と出会えないのか、等々・・・・問いを出していくと限りがありません。しかしそれぞれの問いに、それぞれが答えを持っているためにすれ違いが起こり、相手を決めつけ、意見が違う者に対して排除する心が生まれてしまいます。現代の緊迫した世界情勢がそれを物語っている様にも感じます。

 以前の掲示板の言葉で、「私は何の為に生まれてきたんだろう」「生きる喜びとは何だろう」という課題について書かせていただきましたが、この問いには人間の知恵では答えが出ません。経験も常識も役に立たないほど大きな問題です。しかし、生きていれば問わずにはおれない時が必ず来るはずです。しかし答えが出なくても、結論が出なくても、深く考え思索した時間こそが最も大切ではないでしょうか。その一生を歩ましめる問いに出会うことが救いであると、今月の言葉は呼びかけています。

 秋の彼岸の講師に来ていただいた藤本愛吉先生に「子どもは大人になるけど、大人になったら何になるの?」と質問されました。答えられずにいると、「大人になったら仏になるんだよ」と教えて下さいました。しかし私にとってこの先生の言葉は答えでは無く、問いかけでした。「私は仏に成るために生まれてきたんだ」という大きな問いを持ち続け、歩んでいきたいと感じました。  貢清春 平成29年9月

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