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古人のあとを求めず 古人の求めたるを求めよ

古人のあとを求めず 古人の求めたるを求めよ

 今月の掲示板の言葉は、江戸時代に、俳句の元となった俳諧(はいかい)を発展させた松尾芭蕉の言葉です。芭蕉は、弘法大師の言葉を参考にしながら、この言葉を弟子の武士、森川許六(きょりく)に贈ったと伝えられています。文中にある古人(こじん)とは、過去の偉人というような意味です。「昔の偉人たちが、何をしたかという結果をまねるのではなく、何をなそうとしたかという志(こころざし)を見極めて行動しなさい」という意味でしょうか。

 許六という名は、俳諧のみならず様々な活動に優れ、槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六芸(りくげい)に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだといわれます。中でも絵画は、芭蕉が許六を師と仰ぐほどです。

 ある時、芭蕉は尋ねます。「絵は何のために好むか」と。すると許六は「俳諧のために好む」と答えました。次に芭蕉が「俳諧は何のために愛するのか」と問うと、「絵のために愛する」といいます。芭蕉は「学ぶことが二種類あるのに、その学びの帰するところが一つなのは、感服すべきことではないだろうか。」と、どちらの世界でも本物に近づこうと志す許六を讃えて、「古人のあとを求めず 古人の求めたるを求めよ」という言葉を送ったのだそうです。

 私は、この言葉の背景にある物語を知り、ふと考えました。例えば、「なぜ仏教に学ぶのか」ということも、「なぜ社会情勢に学ぶのか」も、「なぜ歴史に学ぶのか」も、「自己をあきらかにする」という点では一つではないかということです。一つの目指す地点が明らかになると、周りにある事柄も、別の登山口のように見えてくるのです。

 「真宗を学ぶ者の姿勢は、現実と聖典の間に身を据えるということが大事なことだ。しかし、私たちは現実と聖典との間に寝そべっているのではないだろうか。間に身を据えるということは、真向かいになるということだ。聖典に真向かいになり、現実に真向かいになることだ。」

 これは亡くなられた宮城顗先生が仰った言葉ですが、「現実と聖典との間に寝そべっている」と鋭く私の姿勢を言い当てられます。真向かいになることなく、ただ眺めているだけで、動かないということでしょう。真向かいになるならば、私を突き動かすものがあるのではないか、ということです。

 学生の時、お世話になった先生が、「どんな仕事でも真剣にやろうとしたら、楽な仕事なんて世の中に一つもないんや」といわれていたことを思い起こしました。「これくらいやったから、もういいだろう」という姿勢を戒めたのが「古人のあとを求めず」ということでないでしょうか。どんなことでも、真向かいになるならば、自分の姿勢が問い返される。「古人」が求めた、真向かいになる姿勢。私は、今、どうであろうか。 (深草誓弥)平成30年2月

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