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どこまで しあわせの道具をそろえたら 人間は 「しあわせです」と いうのでしょうか  (金子大栄)

どこまで しあわせの道具をそろえたら 
 人間は 「しあわせです」と いうのでしょうか  (金子大栄)

 今月の掲示板の言葉は、「しあわせ」について述べられた金子大栄先生の言葉です。特に目を引くのは「しあわせの道具」という言葉ではないでしょうか。道具とは、太古の人類が用い始めた石器から始まり、近代にいたると工具、文房具、農具、家具、調理器具、実験器具など様々なかたちで私たちの生活、文明を支えています。人類は道具をつくり、使いこなし、発展させて様々な文明をつくってきました。

 たしかに様々な道具の登場によって私たちの生活は、より豊かで、快適になったように感じられます。最近登場した道具の代表は、ロボット掃除機や全自動洗濯乾燥機、食器洗い機。自動運転の車。つい十年ほど前では考えられないような道具が次々登場しています。掃除や洗濯をしなくていい、あるいは早く終わらせることができる。早くて便利、何もしなくていい。気が付いてみるとそういう道具がどんどん増えて、実際に私もそれらの道具に囲まれています。

 「私の代わりに、道具がしてくれる。では私は何をするのか。」ふと、そのことが気になりました。確かに「早くて便利。何もしなくていい。楽」そういうことは感ずるでしょうが、掲示板の言葉にあるように「しあわせです」といえるか、と問われるとどうでしょうか。

 このまま私の代わりにいろんなことをしてくれる道具をそろえ続けたら、最終的に人間はどうなるでしょうか。ボーっとしているだけで、動かないで、食事を食べさせてもらい、おしりも拭いてもらって、テレビでも見ながら、ロボットに指示だけ出すようになるのでないでしょうか。そういう状況を想像してみましたが、私はそこで「しあわせ」といえる自信はありません。

 私たちは「しあわせの道具」を手に入れることによって、自分の思いは満たされ、満足すると思っていますが、「私は何のために生まれて、生きているのか」という「人の使命」というものが空白のままでは、決して「しあわせ」とはいえないでしょう。先にも述べましたが、「私は何をするのか」という問題です。

 「私の代わりに○○してくれるもの」を追い求め続けて、「私は何のために生きているかわからない」ということでは、私の代わりをしてくれて、支えてくれる道具も台無しにしてしまうことになりませんか。どういう状況がめぐってきても、他人の責任にしたりしないで、自分を捨てないで、与えられた人生を生きていきたい。そういう使命が見いだされて初めて、支えてくれる道具も生きてくると思います。 平成30年6月 深草誓弥

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