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学ぶ暇がないという人は 暇があっても学ばない人である

学ぶ暇がないという人は
 暇があっても学ばない人である

 ある学習会の場で、御門徒に「若院さんは、いつも法話をしたりせんばいかんけん、勉強大変かですね」と声をかけられました。その時は、「そうですね」と軽く受け止めていた言葉が、ちょうど今月お寺に掲げられた掲示板の言葉とあいまって、次のような問いとなって、私を揺さぶっています。

 忙しい、「時間がない」と言い訳しているが、暇がないから、学ぶことが出来ないというのは口実で、学ぼうとする意欲を持ち合わせていないのでないか。自分の全体を投げ出すような学びになっているだろうか。「なぜ仏教に学ぶのか」ということを、見失っていないだろうか。

 これは仏教の学びだけに限らず、何を学ぶについても同じことがいえるのだと思います。どれだけ素晴らしい先生に恵まれたり、学ぶ環境がととのっていたとしても、そこに臨む私自身が学びたいという「こころざし」を持ち合わせていなければ、先生の前を素通りするしかないでしょうし、どれだけ時間を学びに割いても、無駄ごとに終わってしまいます。

 私の日ごろの在り方を顧みますと、仏教を学ぶといっても、自分にとって有用であるか、無用であるか。わかりやすいか、わかりにくいか。いつでも自己中心的な思いを中心にした学び方になっています。もはやこれでは、学ぶというよりも、ただ品定めをするように選別し、使っているだけです。
 『歎異抄』の第二条には、私たちの一番深いところにある欲求を、「御こころざし」として親鸞聖人が言い当てておられます。

 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたもう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。(『真宗聖典』626頁)

 親鸞聖人はどんな人であっても、心の奥深くに「往生極楽のみち」を問い聞こうとする「御こころざし」があることを信頼して語りかけておられます。大谷専修学院の狐野秀存先生は、この「往生極楽のみち」を次のような言葉で語られています。

 「往生極楽のみち」というのは、「念仏往生の道」ということです。「えらばず、きらわず、みすてず」と私どもを丸ごと受け容れる仏の念(おも)いを深く信じて事実の自分を生き始める、そのような「念仏申して立ち上がる」という、そういう本当の人生をいきたいという、誰もみなのこころの内深くにある願いを親鸞聖人は、「御こころざし」と言い当てておられるわけです。(『願生』第171号 入学式学院長告辞)
                      
 どんな人も心の奥深くに仏法を求める意欲のあることを親鸞聖人は「御こころざし」と尊敬を込めて呼びかけられました。それは「あなたの中にも仏法に学ばんとする意欲があるのですよ」という呼びかけです。  深草誓弥 平成30年10月

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