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人として 帰る世界を 彼岸という (いのちのことばⅡ)

人として 帰る世界を 彼岸という (いのちのことばⅡ)

 蒸し暑く、雨の多かった8月も過ぎ、お彼岸の季節が近づいて来ました。日を追うごとに日暮れが早まり、秋へと向かいつつあります。お彼岸とは、1日の昼と夜の長さが同じになる「春分の日」と「秋分の日」を中心にして前後3日、計7日間行われる行事です。お中日には太陽が真西に沈む事から、西方極楽浄土を観ずる一週間として伝統されてきた仏事であります。また浄土へ往生された方々(先祖)を思う心から、お墓参りの習慣も定着しています。

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、季節の名称として日本に伝わっていますが、時期だけを示した名前という訳ではありません。彼岸とは読んで字の如く「彼の岸(かのきし)」向こう岸、という意味があります。向こう岸があるということは、向こう側と何か隔てるものがあってこちらの岸「此岸」があるわけです。彼の岸は仏の世界(浄土)ならば、此の岸は人間の世界(穢土)という関係があります。しかし何故、人として帰る世界が彼岸の浄土なのかを考えてみたいと思います。

 今私は動画配信サイトで、日本や世界の歴史や現代の社会情勢をまとめた講義形式の動画を見ています。東西の冷戦や朝鮮半島問題、中東の歴史など、世界の歩みを順を追って見ていくと、いつの時代もどの国も「自国ファースト」なのだということが知らされました。「自国ファースト」とは常に自国中心で、他の国に対しては排他的な関係でしかありません。自国の繁栄と称して国益となる事ならば、他国と戦争をしてでも領土を手に入れようとします。意見の違う国と話し合って解決しようとか、つながりあって生きていこうという「対話」ではなく、「暴力」で決着を付けようとします。そして侵略され暴力を受けた側は怨みを残し、子孫の代まで消えることはありません。親の敵、祖国の怨みという消えない感情が次の戦争を生んでいく。そういう不安定な情勢が、現代の世界の姿ではないでしょうか。

 その様な問題を作ってきた「自国ファースト」の歴史は、「自分ファースト」として生きている私自身と重なる事も知らされました。それは、自分さえ良ければいいという日頃のこころそのものです。このこころで生きていると一番身近なコミュニティー、家庭、地域、職場などで摩擦を生じ、つながりを自分から切り、他者を傷つけてしまうこともあります。それで自分の心が安心し、落ち着くかというと決してそうではありません。よくよく考えてみると、相手を傷つけ悲しませてしまった場合、心の底から喜ぶことは出来ないと思うのです。様々な関係を生きている私達は、自分も他人も一緒に安らぎ喜べる様にならないと、私の本当の救いにはならないのです。

 阿弥陀経というお経には、浄土の世界を「倶会一処」する世界だと説かれてあります。ともに一つの処で会う世界がお浄土だということです。「会う」とは、顔を合わせるという事だけではありません。あなたも私もここで一緒に生きることが出来るという事です。どの様な人も、どんな生き方をしていようとも、生きていける居場所を与えて下さるのが浄土のはたらきであり、そういう世界を取り戻すことを願われているのが阿弥陀如来という仏様です。だからこそ「私たちの帰る場所は彼岸の浄土ですよ」と呼びかけておられるのです。

 また中国の善導大師は、
 「帰去来(いざいなん)、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。」(「法事讃」聖典P355)
 現代語に訳すと「さあ帰ろう。迷いの世界には長居すべきではありません。阿弥陀仏の『浄土へ帰ってきなさい』という命令にしたがって、故郷である彼岸の浄土(本家)へ帰ろうではないか。」という意味です。帰る家(本家)があるということは、現在ただ今の安心につながっているのです。さあ帰ろう。 令和1年9月 貢清春

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