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8月の婦人会法筵・盂蘭盆会の御案内

 
八月の「婦人会法筵」・「盂蘭盆会法筵」の御案内
 

   宗教とは何か  (児玉暁洋『いのちを喚ぶ声ー親鸞の宗教ー』)
 宗教において助かるとは一体どういうことなのだろうか?どうなることが助かるということなのだろうか?ある人は宗教を聞くと、心が安らかになってスカーッとするという。それで私はスカーッとするならコカコーラを飲んだほうが良いだろうと言うのです。「スカッとさわやかコカコーラ」といつも言っている。
 ところで助かるということが分かるためには、困ったということが分からなくてはならない。困ったことが分かれば、助かるということが分かるのです。ところが私達人間は、毎日生活をしていますと、いろいろな問題がありますね。経済問題もあれば病気になるということもある。そこでたとえば経済に困ったことを助けてくれる宗教があるならば、その宗教は銀行の代用品である。つまりそのような宗教は何かの代用をするのである。
 お寺だけが与えるもの、宗教だけが与えるもの、それは何だろう?
 

八月の婦人会法筵は、講師に崎戸の真蓮寺御住職、寺本 温師をお招きしまして、『仏説観無量寿経』について、『現代の聖典』に沿って御法話をいただきます。
『仏説観無量寿経』序分には、わが子阿闍世に、母韋提希が幽閉される物語が説かれます。牢獄で韋提希は、「釈尊、直々はもったいのうございます。お弟子で結構ですから、この悲しみと苦しみを癒してください」と自身の体面をつくろったまま、釈尊以外の人に救いを求めます。それに対して釈尊は、韋提希の求めとは違い、自ら地をくぐって韋提希のもとに出られます。このことは何を意味するのでしょうか。「私に釈尊はもったいない」という心根は、自己反省という「たてまえ」で済ませようとする韋提希の心根です。それを釈尊は自ら韋提希のもとに出られることで示されたのではないでしょうか。この韋提希の心根は私たち一人ひとりの中にある心根です。
 二度の世界大戦を経験し、長崎、広島には原爆が投下されました。しかし、その戦争という傷つけあうあり方、被爆国としての痛みの歴史を風化させ、「安全でクリーンなエネルギー」と思い込ませ、福島原発事故を引き起こさせたのは、他ならぬ自分の思いを頼りに生きている私たちです。単に自己反省で済ませることは出来ません。
婦人会、盂蘭盆会法筵を通し、念じたもう仏のまえで、先人の声なき声を聞き、何が願われているのか、私たちが本当の自分に目覚める御縁として受け止めたいものです。有縁の皆様をお誘い合わせの上、御参詣下さいますように宜しくお願い致します。尚、婦人会法筵は、婦人会主催の法筵であり、会員皆様に限りませんので、御門徒皆様もお誘い合わせの上、御参詣下さいませ。
 
 
婦人会法筵
 日時 8月2日(金)より8月4日(日)まで3日間 午前9時半開筵
   法話 崎戸 真蓮寺住職  寺本 温師
 

盂蘭盆会法筵                            納骨堂盆読経
日時 8月16日(金) 午前9時半開筵     8月13日~15日の午後6時
 

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