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日曜学校夏の集い案内

   日曜学校夏の集い
-- 夏休みの作品にぴったり 陶芸制作 --

 今年の夏の集いは、陶芸制作を計画しています。陶器は生地作りから絵付けまで一日で出来ないために、2日間の制作を予定しています。原則、両日の参加が前提ですが、どちらか一日しか参加できない場合でも、作品が出来るように計画しています。指導は小串「肥前信窯」の吉崎昭信先生にお願いしております。2日目、絵付けをした後には桂米朝氏の「地獄八景亡者戯」という落語映像を観る予定です。とても楽しい落語です。どうぞご参加いただきます様、ご案内申し上げます。


●1日目  陶器の生地制作  (粘土でマグカップやお皿他、自由に制作します)
 ・日時:8月19日(金) 午後1時30分集合~4時解散(送迎をします)
 ・持参品:お勤め本、念珠、筆記用具、水筒、アルミの空き缶1個、中古歯ブラシ


●2日目  陶器の絵付け制作  (素焼きした生地に、絵の具で絵付けをします)
 ・日時:8月27日(土) 午後3時集合~6時40分解散(送りはしません)
 ・持参品:お勤め本、念珠、筆記用具、水筒、水彩絵の具、野菜(ジャガイモ、
  にんじん各1つ)、お米(1人1合・参加されるご家族の分も持たせて下さい)

2日目 日程 午後~(お迎えに来ます)
 3:00 集合 勤行
 3:30 制作開始
 4:30 制作終了~片付け
 5:00 映写会(落語)*保護者の方、家族の方もご一緒にご参加下さい。
 6:00 夕食 *家族の方も一緒に食べましょう。門徒会館で食べます。
 6:40 解散 (送りはしません)
*絵付けした陶器は、次の日に本焼きをしてもらいます。出来上がった陶器は8月29日以降、夏休み中に寺に取りに来て下さい。

◎陶芸材料費:500円 *参加日当日にご持参下さい。陶芸をするための材料費です。
              後から参加される家族の方の分は徴収しません。
◎申込み:8月12日までに参加の申し込みを、電話またはメールにてお願いします。
     *保護者、ご家族の皆様の参加人数もお知らせ下さい。
       連絡先 ・電話 82-2154

*2日目、夕方5時からの映写会・夕食には、保護者、家族の皆様もご一緒にご参加下さい。お子様と一緒に解散となります。終了後の送迎はしません。

八月の「婦人会法筵」・「盂蘭盆会法筵」の御案内

 「どこかに必ず光がある」

 『遺愛集』という尊い歌集を遺している島秋人さんは、小、中学校を通じて成績がたいへん悪く、みんなからバカにされ、無視され、だんだん心が荒み、少年院に送られたこともある。ある雨の夜、飢えに耐えかねて一軒の農家に押し入り、二千円を奪い、そのとき、そこの家の人と争い、奥さんを殺し死刑囚となり既に処刑された。
 死刑囚として獄中で、小・中学校時代ただ一度、中学校の絵の先生が「絵は下手だが構図は君のが一番いい」といわれたことが思い出され、懐しくなり、獄中から先生に手紙を出した。
 先生からの返事に先生の奥さんの短歌が書き添えられていた。それを読んで、自分も歌が詠みたくなって、歌が生まれはじめた。島さんにも、尊い光があったのだ。

   助からぬ生命と思えば一日の 小さなよろこび大切にせむ
   安らかに笑みて受くべし殺めたる 罰受くる日のいつに来るとも
   愛にうえし死刑囚われのたまわりし 菓子地におきて蟻を待ちたり
   世のためになりて死にたし死刑囚の 眼はもらい手もなきかもしれぬ

 人間にくずはない
 人生にむだはない
(東井義雄)
 八月の婦人会法筵は、講師に崎戸の真蓮寺御住職、寺本温師をお招きしまして、『仏説観無量寿経』について御法話をいただきます。尚、この法筵は、婦人会主催の法筵であり、会員皆様に限りませんので、御門徒皆様もお誘い合わせの上、御参詣くださいませ。

             記
婦人会法筵
 日時 8月6日(土)より8月7日(日)まで2日間 午前9時半開筵

 法話 崎戸・真蓮寺住職  寺本 温師

盂蘭盆会法筵   日時 8月16日(火) 午前9時半開筵

納骨堂盆読経  日時 8月13日~16日の、午後6時

10月の秋季永代経の御案内

 生者の身勝手が 亡き人を
   餓鬼 畜生にする

 常に飢えて、満足感のない境界を餓鬼という。常に束縛されて引きずり回されている境界を畜生という。
 畜生は主体性なく、いつも責任を他に転嫁するからして、罪の自覚もない。したがって慚愧(ざんぎ)の心もない。ついには死者にも鞭をふり、神・仏をも恨むことになる。満足感のない餓鬼の根性は、限りなく欲望を追求して自分の都合のよい条件を満たそうとして、他人の気持ちをかえりみることがない。神・仏をも利用しようとする。
 人間の親から餓鬼・畜生が生まれる道理はない。もし私自身が餓鬼・畜生として生きているとすれば、今は亡き父母たちは、餓鬼・畜生だと言わなければならない。

 声なき姿なき親を前にして、我々は何を思うでしょうか。「亡き人が、亡き身をもって、何を語ろうとしているのか」という、声なき人の声に耳を澄ませる時、常に私を見守り続ける亡き人の「ねがい」が聞こえてくるに違いありません。
 秋の永代経法要を左記の如く厳修致します。永代、無量寿の経教に依って御先祖の遺徳を偲びつつ、御恩の誠を尽くさんがための聞法の御縁にお遇い下さいませ。

        記 
   日時  平成27年 10月16日(金)~18日(日) 午前9時半開筵
   講題  「亡き人、先祖とは、その供養とは」
   講師  日田、緑芳寺 河野通成師・及び住職

盂蘭盆会並びに、非核非戦法要の御案内

 盂蘭盆会並びに、非核非戦法要の御案内

 今年、私たちは被爆70年、敗戦70年を迎えました。例年勤めております盂蘭盆会と、非核非戦法要をあわせて勤めさせていただきたいと思っております。
 原爆によって、また先の大戦によって多くの尊いいのちが奪われ、生き残った人々も、今もなお苦しみ続けています。70年という時を経て、原爆、戦争を知らない世代が大多数となり、その体験は風化の一途を辿っています。
 今を生きる私たちは「人類の英知」として核を持ち続け、原発事故によって新たな被爆者を生み出しました。敗戦後も民族、宗教の違いや経済格差による対立によって、世界各国で戦争が起こっています。そのなかであえて戦争の放棄を願った憲法第九条は戦争の悲しみをくぐって生まれたものではないでしょうか。
 今、私たちは、原爆・戦争による犠牲者の苦しみ・悲しみを忘却し、それを引き起こした歴史への慙愧の心を放棄しているように思えます。
供養とは 亡き人に心配かけない 生き方を見つけることなんだ そのために仏法を聞くんだ。心配かけない生き方とは一人一人が「自立」していくことなんだ  藤元正樹
 「非核非戦」とは、私たちの在り方を「非―あらず―」として、自己を見つめ問い直す道を指し示す如来の願いです。「非核非戦」の言葉の前に座して、私たちはどのような「生き方」を見い出すことができるでしょうか。戦争、核によっていのちを奪われた、全ての亡き人からの使命をうけとめ、ひきうけ、歩んでいけるものでありたいと願います。
 何卒、有縁の皆様をお誘い合わせの上、御参詣下さいますように宜しくお願い致します。

  日 時  平成27年 8月16日(日) 午前9時半より開筵
  法 要  『仏説阿弥陀経』・『正信偈』同朋奉讃
  法 話  福浄寺 住職・寺中

8月の「婦人会法筵」・「盂蘭盆会法筵」の御案内

 教室で子どもが質問した。「あーんと口を開けると、喉の奥に、上からさがってついてる、ぼくらが『ノドチンコ』と呼んでいるものが見えてきます。あれは、どういうはたらきをしているのですか」私は困ってしまった。そのはたらきを全く知らなかった。
 調べてみると、食べものを飲み込むときには、あの「のどちんこ(口蓋垂・こうがいすい)」が、気管の入り口を、ピタリと蓋(ふた)をしてしまうそうだ。そのおかげで、まちがいなく食べたものは食道に進み、胃に進むというのだ。
 それが解ったとき、天地がひっくり返るほど、ショックを受けた。そのはたらきを知らぬくらいだから、一度も、感謝したことなどない。お礼を言ったことも、もちろんない。それどころか、「ノドチンコ」のことひとつ解っていないのに、「唯物論」だとか「無神論」だとか、偉そうなことを言い、「傍若無人」に生きていた私だった。
 このとき、私の生きているという底にあって、私を生かしづめに生かしている何ものかを強烈に感じたのだった。気がついてみたら「口蓋垂」だけではない。目も耳も手も足も、心臓も、みんなみんな、ただごとではない、不思議きわまることであったのだ。「生きてる」とばかり思っていた私が「生かされていた」のだ。頭の上がらぬ思いだった。
 幼い時からずっとずっと、こういう私によりそって、はらたきづめにはたちいてくださったはたらき、願いがあったのだ。私が忘れているときも、背いているときも、おこっているときも、私の背後から、祈りづめに祈り、働きづめに働いていたのだ。それに気づいたとたん「助けてくだされよというに非ず、助かってくれよとある仰せに従うばかりなり」ということばが、有無を言わせず私を「仏」の前にひきすえた。
 「仏さま」は、「私」の向こうにではなく、「私」の「いのちの根源」に、はたらき続けていてくださっていた。
(東井義雄)

 八月の婦人会法筵は、講師に崎戸の真蓮寺御住職、寺本温師をお招きしまして、『仏説観無量寿経』について御法話をいただきます。尚、この法筵は、婦人会主催の法筵であり、会員皆様に限りませんので、御門徒皆様もお誘い合わせの上、御参詣くださいませ。

             記
○婦人会法筵
 日時 8月1日(土)~8月3日(月) 午前9時半開筵
 法話 崎戸・真蓮寺住職  寺本 温師


○盂蘭盆会法筵
 日時 8月16日(日) 午前9時半開筵

○納骨堂盆読経
 日時 8月13日~15日 午後6時
 場所 福浄寺納骨堂

第6回 真宗入門講座開催

   第6回 真宗入門講座  まんが「宗祖親鸞聖人」に学ぶ

  この度、第6回目の真宗入門講座を開催いたします。講座の内容は難波別院発行のまんが「宗祖親鸞聖人」をテキストにして、宗祖の御生涯を学んでいきます。講師に、京都東本願寺で真宗教学を専門に学んでおられる鶴見晃師をお迎えします。御多忙とは存じますが、お誘い合わせ御参加下さいますよう御案内申し上げます。

日時:平成26年

   10月7日(火)午後19:30~

   10月8日(水)午前9:30~

場所:福浄寺本堂

講師:鶴見 晃師

       (真宗大谷派教学研究所研究員)

 

 【前回までのあらすじ】

 親鸞聖人33才の時、師法然上人の主著、『選択本願念仏集』の書写を許され、浄土へ生まれ往く存在としての確信と同時に、念仏者として「伝える」事の使命感を身にいただかれていきます。

 また、門徒内で「一念義」と「多念義」の対立が次第に溝を深め、聖人は信行両座の会座を開かれます。門弟の誰もが行の座に着く中、親鸞聖人他、少数の門弟は信の座へ。最後に法然上人が信の座に着き、阿弥陀仏の本願を信じる事が、浄土往生の因であると示されました。

 専修念仏の教えが京都に広まる一方、他宗からは和国の存立を脅かす存在と蔑視されました。その為、南都興福寺は念仏者達の九箇条の過失を取り上げ、朝廷に訴える事態となります。それからというもの、法然門下は他宗からの風当たりが厳しくなっていき、破門せざるを得ない門弟まで出る事態となり、その後、念仏宗の弾圧につながる事態へと展開していきます。

 

御正忌報恩講案内

  恩に報ゆる生活 

 私共人間は、恩波の上に漂っている小舟のようなものである。前も恩、後ろも恩、右も恩、左も恩、過去も恩、未来も恩、私がこの世に居るということの一切が御恩である。この御恩は返しても返しても加わって来る。私共の生活は恩をうくる生活であると同時に恩に報ゆる生活である。この事を教えて下さったのが親鸞聖人である。聖人の教えが無かったら私は恩の中に居ながら恩を知らないでいたことである。これによって思うに聖人が私のうけている御恩の根本である。

 一年三百六十五日、一日として報恩の日で無いのはない。毎日が報恩講である。その報恩講の最も根本的なるものが親鸞聖人の御恩に対する報恩講である。聖人の報恩講を営むことによって報恩の生活が明らかになるのである。毎年十一月、聖人の報恩講に逢うごとに報恩の中に育って居る自分を明らかにして頂くのである。故に私は毎年の報恩講が生活刷新の根元であると信じて居る。毎年報恩講を営むことによって生活のよろこびと力とを鼓舞せられることである。               (暁烏 敏 『報恩講の案内状に添ふる言葉』から)

 聖人の御恩徳を憶い、今年の御正忌報恩講を厳修させて頂きます。真宗門徒、又福浄寺にとりましても最も大切な法要でありますと共に、そのお荘厳(おかざり)にも多数の御門徒の願いと、ご苦労と、日にちがかけられた、寺門あげての仏縁です。

 どうぞ真宗門徒の証を立てるべくお繰り合わせ御参詣聞法下さり、またご一緒に勤行唱和をして下さいますようご案内申し上げます。

 また、多くの方々の御縁をいただくことを願い、且つ、昔日の報恩講を偲びたく、粗餐でございますが、お昼のお齋を用意いたします。ご参詣の皆様、毎日お席について下さいますようお願い申し上げます。

 

  一、日時 一月二十二日より二十八日まで

       日中 午前九時半 逮夜 午後七時半

 一、法話 福浄寺住職・若院(二十二日日中~二十三日逮夜まで)

      北九州・徳蓮寺 伊藤 元師(二十四日~二十八日まで)

  一、勤行 正信偈  真四句目下(大谷声明集 四五頁から五九頁)

      念仏、和讃 五ッ淘、五遍反し 回向 願以此功徳

 

門徒報恩講案内

 門徒報恩講案内

  今年も愈々師走になります。 就きましては、1月の御正忌報恩講から始まり、また本年の最後のしめくくりの法要、「門徒報恩講」を例年の如く下記により勤めさせて頂きますので、皆様、宗祖親鸞聖人の御恩徳を憶い、報恩感謝の志をお運び下さい。そして各地区仕出し当番の皆様の、昨今では中々味わえない手作りの精進お斎をいただいて下さい。皆様のお繰り合わせの御参詣を念じます。尚、参詣日は一応の目安です。都合の付かれる日でもかまいません。

 当日の勤行は正信偈三首引きでつとめます。御和讃は、赤表紙の勤行本五六頁「三朝浄土の大師等」からの三首です。ご一緒にご唱和下さい。

   日程(下線印は仕出し当番) 勤行は午前10時からです。

12月10日 木場講 (上、下)

  11日 川原、石木講(上、中、下)

  12日 音琴講(口木田、大音琴、小音琴、彼杵) 口木田、大音琴

  13日 西講ノ上(波佐見、中山、刎田、岡谷、川良、野口)

  14日 西講ノ中(中組、宿、岩立、上、下百津)

   15日 西講ノ下(栄町、城山、数石、住宅) 日曜学校参加

  16日 西講ノ西(下組、平島、琴見ヶ丘、白石、三越、小串、惣津、新谷

  17日 五反田(上、下)、猪乗講 及び町外       

10月の秋季永代経の御案内

永代経法要の御案内

 

  亡き父母を 縁(えにし)に出遇う 無量の寿仏(ほとけ)

 仏壇の中のお母さん  (小学校三年男児)

 『ぼくは、あかんぼうのときおとうさんをなくしたので、きょうだいもなくお母さんとふたりきりでした。そのお母さんまでがぼくだけひとりおいて、お父さんのいるおはかへいってしまったのです。いまはおじさん、おばさんのいえにいます。まいにち学校にいくまえに、お母さんのいるぶつだんにむかって、いってまいりますをするので、お母さんがすぐそばにいるようなきがします。お母さんはぼくのむねの中にいて、ぼくのことをみています。』

 生きているものだけがただ出会うだけでなくて、なくなった方でも、ちゃんと常に出会っている。生きていらっしゃった時よりも、もっと本当に出会っている。これが仏様の願いに答える出会いの世界じゃないだろうか。 (東井義雄)

 


 声なき姿なき親を前にして、我々は何を思うだろうか。「亡き人が、亡き身をもって、何を語ろうとしているのか」という、声なき人の声に耳を澄ませる時、常に私を見守り続ける亡き人の「ねがい」が聞こえてくるに違いない。

 秋の永代経法要を下記の如く厳修致します。永代、無量寿の経教に依って御先祖の遺徳を偲びつつ、御恩の誠を尽くさんがための聞法の御縁にお遇い下さいませ。

 


        記 

   日時  平成25年 10月18日(金)~20日(日) 午前9時半開筵

   講題  「亡き人、先祖とは、その供養とは」

   講師  福浄寺、住職及び寺中

8月の婦人会法筵・盂蘭盆会の御案内

 
八月の「婦人会法筵」・「盂蘭盆会法筵」の御案内
 

   宗教とは何か  (児玉暁洋『いのちを喚ぶ声ー親鸞の宗教ー』)
 宗教において助かるとは一体どういうことなのだろうか?どうなることが助かるということなのだろうか?ある人は宗教を聞くと、心が安らかになってスカーッとするという。それで私はスカーッとするならコカコーラを飲んだほうが良いだろうと言うのです。「スカッとさわやかコカコーラ」といつも言っている。
 ところで助かるということが分かるためには、困ったということが分からなくてはならない。困ったことが分かれば、助かるということが分かるのです。ところが私達人間は、毎日生活をしていますと、いろいろな問題がありますね。経済問題もあれば病気になるということもある。そこでたとえば経済に困ったことを助けてくれる宗教があるならば、その宗教は銀行の代用品である。つまりそのような宗教は何かの代用をするのである。
 お寺だけが与えるもの、宗教だけが与えるもの、それは何だろう?
 

八月の婦人会法筵は、講師に崎戸の真蓮寺御住職、寺本 温師をお招きしまして、『仏説観無量寿経』について、『現代の聖典』に沿って御法話をいただきます。
『仏説観無量寿経』序分には、わが子阿闍世に、母韋提希が幽閉される物語が説かれます。牢獄で韋提希は、「釈尊、直々はもったいのうございます。お弟子で結構ですから、この悲しみと苦しみを癒してください」と自身の体面をつくろったまま、釈尊以外の人に救いを求めます。それに対して釈尊は、韋提希の求めとは違い、自ら地をくぐって韋提希のもとに出られます。このことは何を意味するのでしょうか。「私に釈尊はもったいない」という心根は、自己反省という「たてまえ」で済ませようとする韋提希の心根です。それを釈尊は自ら韋提希のもとに出られることで示されたのではないでしょうか。この韋提希の心根は私たち一人ひとりの中にある心根です。
 二度の世界大戦を経験し、長崎、広島には原爆が投下されました。しかし、その戦争という傷つけあうあり方、被爆国としての痛みの歴史を風化させ、「安全でクリーンなエネルギー」と思い込ませ、福島原発事故を引き起こさせたのは、他ならぬ自分の思いを頼りに生きている私たちです。単に自己反省で済ませることは出来ません。
婦人会、盂蘭盆会法筵を通し、念じたもう仏のまえで、先人の声なき声を聞き、何が願われているのか、私たちが本当の自分に目覚める御縁として受け止めたいものです。有縁の皆様をお誘い合わせの上、御参詣下さいますように宜しくお願い致します。尚、婦人会法筵は、婦人会主催の法筵であり、会員皆様に限りませんので、御門徒皆様もお誘い合わせの上、御参詣下さいませ。
 
 
婦人会法筵
 日時 8月2日(金)より8月4日(日)まで3日間 午前9時半開筵
   法話 崎戸 真蓮寺住職  寺本 温師
 

盂蘭盆会法筵                            納骨堂盆読経
日時 8月16日(金) 午前9時半開筵     8月13日~15日の午後6時
 

7月の作上がり法筵の御案内

 7月の「作上がり法筵」の御案内
 
拝啓 梅雨の季節となりましたが、皆様御健勝にお過ごしのことと拝察いたします。
 さて、今年も「作上がり法筵」を迎えることとなりました。かつては、梅雨を迎え田植えが終わる頃になると、土に、雨に、草木に大小の生き物に眼を向け、自然(しぜん)の働き・恵みを、自然(じねん)の世界として受け止め、人間の思惑、分別、はからいを超えた世界を実感してきました。その思いを私たちの先祖は、「作上がり法筵」という、仏縁として大切にしてきました。
 しかし人間は、人間の知恵こそ最高のものと考え、それを尽くして便利で快適な世の中を作って来たと思っています。果たしてそうでしょうか。一層の不安と迷いを深めているのではないでしょうか。この時にこそ、自然(じねん)の世界に謙虚に耳をかたむけたいものです。
 何卒、有縁の皆様をお誘い合わせの上、御参詣下さいますように宜しくお願い致します。
 
  日 時  平成25年 7月5日(金)より7月7日(日) 
        午前9時半より開筵
  法 話  日田 緑芳寺  河野 通成師
 

3月の春期彼岸会法要御案内

      春彼岸会法要の御案内

    救われるということは 場所を給わること。  (宮城(みやぎ) 顗(しずか))

  今に生きる子どもたちにとって耐え難いのは、居場所がないということでしょう。その居場所とは、自分を深く見つめ、他の人と語り合うことのできる精神的場所を意味します。

 本来は家庭、あるいは学校が、生活の中で一番の居場所であるはずです。ところが、安心できるはずの家庭でいらいらしている。親子兄弟の心の疎通が持てない。学校は一番友達と出会えるチャンスがあるにもかかわらず、その学校で孤独であり、いじめの恐怖におののいているというのです。それは大変なストレスを感じると思います。

 宗教的に見たら、本当の救いとは、浄土を見いだすことと言ってよいでしょう。その浄土とは、あなたとわたしが、当たり前の人間としての愛と優しさをもって関わり合える場所です。浄土がわたしの身と心に見いだされたとき、安心して娑婆(泣いたり笑ったり怒ったりしている現実の世界)に生きることができるのです。

 宮城(みやぎ)顗(しずか)先生は、「救われるということは、そういう浄土の場をいただくこと」と言われるのです。  (中村薫)

 春の彼岸会法要を下記の如く厳修致します。お彼岸を通して諸仏となられたご先祖を偲びつつ、聞法の御縁にお遇い下さいませ。                            合掌

               記

   日時 平成25年 3月17日(日)~23日(土)までの7日間、午前9時30分開筵

  講師 小松市 日野 賢之師 (19日~23日)

       福浄寺 住 職    (17日・18日)

 

2月の春季永代経法要御案内

 春季永代経法要御案内

春の永代経法要を来る2月22日から2月26日まで5日間奉修致します。

永代無量の経教に依って御先祖の遺徳を偲びつつ、報恩の誠を尽くさんがための聞法の御縁にお遇い下さいますよう、何卒お繰り合わせ御参詣下さい。

下記の日程でおときの用意を致しておりますが、都合のつかれる日でも構いません。おときは1回に限らず何回でもお座り下さい。

            記

    日程 平成25年 2月22日~26日 午前9時半開筵

    法話 長崎市三重町 正林寺住職 松林大師  

       22日・・・木場、川原、石木

       23日・・・大音琴、小音琴、口木田、数石、新百津、若草、旭ヶ丘、山手、東彼杵町

       24日・・・中山、上組、野口、中組、宿、岩立

       25日・・・下組、白石、小串、惣津、三越、上・下百津、栄町、城山、琴見ヶ丘

       26日・・・五反田、猪乗、波佐見、その他の町外

 

1月の御正忌報恩講案内

御 正 忌 報 恩 講 案 内 
 
  恩に報ゆる生活                                       
 私共人間は、恩波の上に漂っている小舟のようなものである。前も恩、後ろも恩、右も恩、左も恩、過去も恩、未来も恩、私がこの世に居るということの一切が御恩である。この御恩は返しても返しても加わって来る。私共の生活は恩をうくる生活であると同時に恩に報ゆる生活である。この事を教えて下さったのが親鸞聖人である。聖人の教えが無かったら私は恩の中に居ながら恩を知らないでいたことである。これによって思うに聖人が私のうけている御恩の根本である。
 1年365日、1日として報恩の日で無いのはない。毎日が報恩講である。その報恩講の最も根本的なるものが親鸞聖人の御恩に対する報恩講である。聖人の報恩講を営むことによって報恩の生活が明らかになるのである。毎年11月、聖人の報恩講に逢うごとに報恩の中に育って居る自分を明らかにして頂くのである。故に私は毎年の報恩講が生活刷新の根元であると信じて居る。毎年報恩講を営むことによって生活のよろこびと力とを鼓舞せられることである。
(暁烏 敏 『報恩講の案内状に添ふる言葉』から)

 聖人の御恩徳を憶い、今年の御正忌報恩講を厳修させて頂きます。真宗門徒、又福浄寺にとりましても最も大切な法要でありますと共に、そのお荘厳(おかざり)にも多数の御門徒のご苦労と日にちがかけられた、寺門あげての仏縁です。昨年は当寺で宗祖の御遠忌法要を厳修致しました。その法要を勝縁として新たに更なる聞法の歩みを始めたいと思います。
 どうぞ真宗門徒の証を立てるべくお繰り合わせ御参詣聞法下さり、またご一緒に勤行唱和をして下さいますようご案内申し上げます。
 また、多くの方々の御縁をいただくことを願い、且つ、昔日の報恩講を偲びたく、粗餐でございますが、お昼のお齋を用意いたします。ご参詣の皆様、毎日お席について下さいますようお願い申し上げます。
合掌
                   記
 
 一、日時 平成25年 1月22日より28日まで
        日中 午前九時半 逮夜 午後七時半
 一、法話 福浄寺住職・若院(22日日中~24日日中まで)
        北九州・徳蓮寺 伊藤 元師(24日逮夜~28日まで)
  一、勤行 正信偈  真四句目下(大谷声明集 四五頁から五九頁)
        念仏、和讃 五ッ淘、五遍反し 回向 願以此功徳
 

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