「わからないは 知っているより ずっと大きい」 江崎 満
【えざき・みつる】版画家・陶芸家。現在は石川県の奥能登を拠点に活動。
人間の文明とは、「分からない」を「分かる」へと変えてきた歴史です。科学や医療をはじめ、人類は未知を探究しながら発展してきました。しかし、私たちが本当に分かっていることはどれほどあるのでしょうか。日常を振り返っても、分かっていることより分からないことの方がはるかに多いのかもしれません。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「無知の知」を説きました。これは単なる謙遜ではありません。ソクラテスが批判したのは、「知っているつもりになっている人間の姿」でした。ソクラテスは政治家や詩人、職人と対話し、「正義とは何か」「善とは何か」「幸福とは何か」と問いかけました。相手は自信満々に答えるものの、問いを重ねるうちに説明は曖昧になり、矛盾が現れます。そこでソクラテスは気づきます。「私はそれらについて十分には知らない。しかし彼らもまた知らない。それなのに知っていると思っている。」ここにこそ「無知の知」の意味があるのです。無知の知とは、知識がないことではなく、「自分が知らないという事実に目覚めること」なのです。
このことを、真宗大谷派の僧侶であり近代真宗教学の礎を築いた清沢満之師は、「知らざるを知るとせよ これ知れるなり」という言葉で表されています。現代語に訳せば、「知らないことは、知らないと自覚しなさい。それが本当に知っているということだ」という意味になります。大切なのは知識の量ではなく、自らの知らなさに気づくことです。この言葉は、ソクラテスの「無知の知」と通じるものがあります。
私たちは物事を理解したつもりになると安心します。私自身も、人のことを分かったように語りながら、後になって全く見当違いだったと気づかされることがあります。実際には、一人の人間の人生や苦しみや、本当の思いまで知ることはできません。それにもかかわらず、「分かっている」と思い込んでしまう。この「分かったつもり」こそ、ソクラテスが問い続けた人間の姿だったのです。
親鸞聖人は、人間を「煩悩具足の凡夫」と見つめられました。煩悩とは、貪りや怒り、ねたみなどの迷いの心です。その姿は自らの分析によって見いだされたものではなく、如来の智慧によって知らされた自己の姿でした。そこには、「私は自分を知っている」ではなく、「自分のことすら分かっていなかった」という深い気づきがあります。この点で、親鸞聖人の人間理解もまた、ソクラテスの問題提起と重なるものがあります。
しかし、ソクラテスが問い続けることで真理へ近づこうとしたのに対し、親鸞聖人は、人間の知恵は煩悩に覆われているため、自分の力(自力)では真実に到達できないと見られました。だからこそ阿弥陀如来の本願(他力)の教えを聞くことを大切にされたのです。人間が真実をつかむのではなく、阿弥陀如来のはたらきによって真実を知らされる。それが浄土真宗の立場です。
海に浮かぶ氷山にたとえれば、海面に見える部分が私たちの知識であり、海中に沈む巨大な部分が未知の世界です。そして私たちは、その未知の大きさすら知りません。「分からない」は「知っている」よりもはるかに大きいのです。ソクラテスの「無知の知」も、親鸞聖人の「煩悩具足の凡夫」という自覚も、「私は分かった」という思い込みから、「私は分かっていない」という気づきへと私たちを導いています。だからこそ、「分からないは知っているよりずっと大きい」という言葉は、自らの限界を知りつつ、謙虚に真実を求めて生きることの大切さを教えているのではないでしょうか。 令和8年6月 貢 清春