今日がどういう日になるかは えらべませんが 今の自分を どう受け取るかは えらべます
今年も新しい年を迎えることができました。昨年を振り返ると、街にクマが出て、人が襲われたり、コメ価格高騰のニュースが大きく取り上げられていました。年が明けて「今年はどんな年になるのだろうか」と想像してみたりもしますが、予定通りに事がはこぶこともありますが、ほとんどのことは予想や予定を超えて起こってくることだとあらためて思います。
思い通りにいかない現実の中で、もがきながら日々の生活を送っているというのが実状のように思います。明治時代に親鸞聖人の教えを受け止めなおした清沢満之先生は、妻子に先立たれ、自らも病床にあるなかで、「如意なるもの」(自由になるもの)、「不如意なるもの」(自由にならないもの)という言葉で思索を深めました。この世には「如意なるもの」と「不如意なるもの」があり、「不如意なるもの」として自分の外にあるもの、(他者、外物)をあげられます。先にあげたように予定していた通りに事がはこぶこともありますが、予期せぬ事態にあうことの方が多いのです。それこそどういうことが自分の身の上に起こってくるかは、まったくえらぶことができません。
そして清沢先生は、私の身体も、「不如意なるもの」といわれます。思えばどういうことをするか、何をいうか、何を思うかも、自分の身体で、自分の心だから自分でコントロールできるくらいに日ごろ考えていますが、出会ったものが自分の意志を超えるようなものだと、とんでもないこと思い、言わなくていいことをいい、とんでもないことをしでかすのが私です。ですから清沢先生は私たちの身体も「不如意なるもの」だといわれるのです。では、どこに「如意なるもの」(自由になるもの)はあるのでしょうか。あらゆるもの全てが「不如意なるもの」のようにすら感じられます。
清沢先生に大きな影響を与えたのがローマ帝国時代のエクピテトスです。彼は奴隷の身分に生まれ、ある主人のもとで奴隷として生活していました。当時の奴隷は鎖につながれているような状態ではないけれども、商品のように売り買いされ、主人になる人がたとえその奴隷を殺してしまっても罪に問われない、そのような中で奴隷として生きた人です。
ある日、エクピテトスの主人が語りかけます。「エクピテトス、お前は俺の奴隷なのだから、お前を生かすも殺すも俺の自由だ。どうだ。」この言葉にエクピテトスは「そのとおりです。」とこたえます。さらに続けて主人は「お前のことは何もかも、俺が握っている。お前は俺の手の内にある。と語ります。
それに対してエクピテトスは次のように語ります。「いや、ご主人様といえども、縛れないことがあります。奴隷である自分をどう受け取るかは、私に与えられた自由です。ご主人様といえども縛れません」とこたえます。自分が奴隷だから絶望だと受け取ることもできます。奴隷だけれども、その自分を自分として受け取ることもできます。エクピテトスは、自由はここにあるのだと教えているのです。
「今日がどういう日になるかは えらべませんが 今の自分を どう受け取るかは えらべます」という言葉について考えてきましたが、その言葉の通り、どういうことが自分の人生にめぐってくるかはえらべませんし、さらには自分自身も抜きがたい、「そくばくの業をもちける身」をもって生きているわが身です。その私のために「たすけんとおぼしめしたちける本願」、「あなたはあなたになればいい」と呼びかける本願のあることを親鸞聖人は語りかけられています。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」(『歎異抄』後序) 令和8年1月 深草誓弥