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人の悪口は嘘でも面白いが 自分の悪口は本当でも腹が立つ

人の悪口は嘘でも面白いが 自分の悪口は本当でも腹が立つ

 遠慮や気を使う必要がない人たちが集まると、その場にいない人の陰口を言ったり欠点をあげつらったりと、悪口が飛び交うことがあります。他人の悪口は嘘でも面白いものです。しかしその悪口の矛先が自分に向けられた時にはどうでしょう。たとえ自分の本当の事を言い当てられた言葉だとしても、腹を立てて不機嫌になってしまいます。私もそうですが、素直に「はい、その通りでした」と頷けない根性を持っています。自分の本当の姿を受け入れることはとても難しいものです。だれでも自分がかわいいし、自己中心的な生き方をしています。今月の言葉は我が身をするどく言い当てられた言葉で、耳が痛いです。

 蓮如上人は、『人の悪き事はよくよく見ゆるなり、我が身の悪き事は覚えざるものなり(蓮如上人御一代記聞書195番)』とおっしゃっています。私たちは誰でもが善悪を計るモノサシを持っていますが、他人に対しての尺度と、自分に対しての尺度が違うので、自分の「悪い」ところは気が付かず、他人の悪い事には敏感に反応し目に付いてしまいます。自分の悪に気が付かないどころか、「自分はいつでも正しい、悪い所は無い」という所に立ち、自分を省みようとしないのが私たちの本当の姿なのではないでしょうか。どこまでも都合よく自分自身を見ようとする、その心を照らす教えに出会わない限り、自分自身の愚かさに気付くことはありません。

 仏様は「自分の目で自分の姿を見ることが出来ないから、お経の教えの中に自分の姿を見なさい」と私たちに問いかけています。その事を中国の善導大師は『経教はこれを喩うるに鏡のごとし。しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧を開発す(観無量寿経疏)』と説かれています。お経は聞いているだけでは何を説いているのかよく分かりませんが、喩えてみれば私を映す「鏡」の様だというのです。

 自分の肉眼で自分の体を見ようとすると、見る範囲が限られてきます。後頭部や背中を見ることは出来ませんし、自分の顔を見るには鏡が必要です。毎日見る鏡は外側しか映し出しませんが、経教は私の内面をありのままに映し出す鏡の様なものなのです。お経を何度も読み、何度も仏のお心を尋ねていけば、仏の智慧が開かれていきます。智慧が生み出され開かれていくとは、自分が賢者になって偉い者になっていくのではありません。お聖教をくり返し読み求めていくことによって自身の迷いの姿が知らされ、愚かな凡夫であるという事が教えられるのです。

 阿弥陀は、そういう身を生きる凡夫だからこそ見捨てずに、浄土へ迎え取ろうとはたらきかけておられるのです。その事を御経の中には「念仏衆生、摂取不捨」と説き、仏に背を向け逃げている愚かな私であったとしても、追いかけて摂取し捨てないとご本願に誓われました。そしてそのこころを私たちに届けようと回向されたのがお念仏です。お経の教えを鏡とするということは、仰ぐべき教えが明確になり、私が目指すべき方向が浄土であると決定するということでしょう。

 悪口は言わないようにしようとか、本当のことを言われても腹を立てないでおこうという道徳の話ではありません。悪口を言ってしまう私、本当の自分を知らない私だからこそ、経教の鏡が必要なのだと問いかけているのが今月の言葉なのだと思います。 令和7年2月 貢清春

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