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-過去の今月の言葉-
地獄が無いと言うている人が 日日毎日煩悩の 炎を燃やして生きている 地獄が有ると言うてる人が 地獄を忘れて暮らしている (正親含英)
悲の無いところに 阿弥陀は立たぬ
自分の「安心・安全」を守るために 危ないものは徹底排除する -コロナ・戦争の現実から見えてきた私-
雨の日には 雨の日の 生き方がある (東井義雄)
おばあちゃんは(おじいちゃんは) なにに なりたいの? (ある小学一年生からの問い)
花咲かす 見えぬ力を 春という 人となす 見えぬ力を 佛という (藤元正樹)
人間心を そのままにしておいて 浄土を求めるということは 成り立たない (仲野良俊)
「鬼は外 福は内」「恵方巻」 問題は どうなることが 幸せか 分からないこと
悲しみは 人と人とをつなぐ 糸である (藤元正樹)
この世の中 何が起こるか わからないのは この世の中に 何をしでかすか わからない私が いるから (佛光寺掲示板)
「阿弥陀仏-南無」念仏は仏に念(おも)われて 仏を念(おも)うこと(狐野秀存)
生きるということは 学ばなくてもわかるような なまやさしいことなのであろうか (児玉暁洋)
浄土に往生するということは ここで生きられるようになったということです (竹中智秀)
戦争に 「聖」とか「正義」 付ける嘘 (「毎日川柳」より)
僕らは色とりどりの命と この場所で 共に生きている (「ツバメ」NHKあおきいろ テーマソング)
雨ニモ負ケテ 風ニモ負ケテ 欲張リ腹立テ 自己中心 ソウイウ私ヲ 仏ハ見捨テナイ
世の中に「雑草」という草はない どんな草にだって ちゃんと名前がついている (牧野富太郎) 「朝ドラ『らんまん』のモデル」
智慧というのは 頭がいいということではない 事実を事実として 生きていける力であり 勇気なのです (宮城 顗 しずか)
「浄土」とは「お前はいかなる世界を生きているのか」と問う言葉
人間の本当の願いは 「通じあって生きたい」 これだけなんですよ (竹中智秀)
報恩は 知恩にはじまる 親鸞忌
人生 一生 酒 一升 あるかと思えば もう空か
わかっても わからんでも 念仏しなさい そして念仏から育てられなさい (信國淳)
「地獄をつくる」(榎本栄一) 私どもには他をかえりみず 自分さえよければのおもいあり 地獄をつくる素因(もと)になるようです
「道」 ここはもう あともどりできぬ道 この世で 一辺だけ 通る道 (「常照我」榎本栄一)
「悪」はつねに外部にあるなら 経験は何度繰り返しても経験にならない (山本夏彦『毒言独語』)
仏法を聞くとは ありがたい話を聞くのではない 有り難い事実に目覚めること (佐々木蓮磨)
助けあわねば生きていけないお互いが また害しあわねば生きていけない そこに人間業の悲しさがある (金子大栄)
「宇宙からは 国境線は見えなかった」(毛利衛) 境界線を作るということは、敵を作り出すこと
娑婆はこんなもんだと思いくくるのは 堕落の第一歩である。(暁烏敏)
みんな「戦さになってしまって」とか「戦さが起こってしまって」とか云っているよ(井上ひさし、戯曲『花よりタンゴ』)みんな責任を負おうとしない
怒りは人と人を分裂させ 悲しみは人と人とをつなぐ (玉光順正)
人間は 逆境に遇わぬと 恩というものは 解りません (曽我量深)
いくら健康が大事だといって 人は健康のために生きているわけではない (医師 中村仁一) 病気にならず長生きをして何をしたいのでしょう?
他人の欠点がよく見えること自体、自らの欠点である
自分の居場所を見いだせない不安は深い
恥ずかしいと 思うことが 少なくなってゆく それが 私には 恥ずかしい
剣をとる者は みな 剣で滅びる (マタイによる福音書)
誰もが安全でない限り、誰も安全でない
他を責めるのは鬼であり 他を裁くのは閻魔であり 不足を思う心は餓鬼であり 人を利用するのは畜生である (松原 致遠)
人の間違いや 欠点をきびしく 見る眼で 自分が見れたら いいですね (野田風雪)
宗教にとって大切なことは 自分の弱さを知ることである (西谷啓治)
自分が生きているということが本当に言える場合とは 足がちゃんと地面についているという場合でしょう (西谷啓治『宗教と非宗教の間』)
宗教のことばは 時代をこえてひびき 科学のことばは 時代とともにかわる (東昇『力の限界』)
み仏は いつもやわらかに わたしのこころを みつめている いらいらするわたしを (小野清一郎)
蛙 私は地獄をすみかとし 浄土をすみかとする ぶざいくな 両棲動物です (榎本栄一)
生きているということは 誰かに借りをつくること (永六輔)
だあれもいない ひとりのとき おねんぶつさまが こうささやく ひとりじゃないんだよ ひとりじゃ(木村無相)
人間は 間柄を生きる 関係存在である だから人間という 或る人は「人間人」と言った それを失うと 人間でなくなる
正義というのは信じがたい 簡単に逆転するんですよ (やなせたかし)
仏教には時代の要求に応えるべき面と時代に要求すべき事があるはずです (豊島学由)
顔を寄せ合い対話すること 手を重ね合わせること それがどれほど貴重で 脆(もろ)いものであるかを 私たちはついに知ってしまった 月永 理絵
人間であるということは 自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して 忸怩(じくじ)たることだ 『人間の土地』 サン・テグジュペリ
「待った」のかすかな御こえに あやうく立ちどまる 勝とう負けまいの方向へ うかうかと行きかけて 榎本栄一
震災で確信した 人は自然から学ばないと 絶対に賢くなれない 美術家 八巻寿文
人が生きているって深いことなのだ それゆえにあなどれないのだ 渡辺 一史
ご恩報謝とは 恩を返すことではなく ご恩を無駄にせぬことである 小山法城
恩と無縁で 生きてこられた人はいない 鷲田清一
「たとい所有者の承諾があったとしても 本当にそれが必要でなければ 他人から何かを受け取るのは盗みです」 ガンディー『獄中からの手紙』 本当に必要なのか 自分でしっかり検証すること
文明が進めば進むほど 天然の暴威による災害が その劇烈の度を増す (寺田寅彦)
人として 帰る世界を 彼岸という 「いのちのことばⅡ」
故郷(ふるさと)は 一人ひとりの 人生の出発点である
泥に生き 泥に染まらぬ 蓮の花 「いのちのことばⅡ」
行きづまるのは己の行為 困るのはわが思い 自分で作り 自分で苦しむ (佛光寺)
尊敬できる人間を持ってる人間が光るんです。尊敬される人間は別に光らない。倉本聰
願わざれども花は咲き 願えども花は散る 佐々木 蓮麿
一度限りの一方通行 誰も代われぬこの人生は すでに見守られ 照らされ 輝いている (仏光寺)
当てが外れた不満の中に見えてきた 当てにしていた 当てにならない私 (仏光寺)
眼前の小さな しあわせは 見えても 背後の大きな おかげさまが 見えない
考えてみると 私一人で最初から作れる物など 身の回りに一つもないのだ
自分以外のものをたよるほどはかないものはない。しかし、その自分ほどあてにならないものはない。 夏目漱石
学ぶ暇がないという人は 暇があっても学ばない人である
いづくへか 帰る日近きここちして この世のものの なつかしきころ (与謝野晶子)
平和のために 何をしたらよいか 君自身が 平和の人と なり給へ (毎田周一)
「殺」の上に 成り立っている 日暮らし それが 私たちの 日暮らしである (広瀬杲)
どこまで しあわせの道具をそろえたら 人間は 「しあわせです」と いうのでしょうか (金子大栄)
「もったいない」貧しく愚かで 力のないものが 最高の幸せに 包まれている その実感が 「もったいない」
人間はね、ただ嘘をつくんじゃないんです。 何かを隠してつくんです。 そして事実を直視しないようにする。 カズオ・イシグロ
帰る場所を見失うと 人間は迷う
古人のあとを求めず 古人の求めたるを求めよ
小さな恩には 気づいても 大きな恩には 気づかない
浄土を本国として この世を生きる 竹中智秀
「己れに願いはなくとも、願いをかけられた身である」 藤元正樹
生は 死という 同伴者によって その輝きを増す (武満 徹)
「救い」とは 答えではなく 問いがみつかる事である 答えは 一生を決めつける 問いは一生を歩ましめる
地獄を嫌う心が 地獄を造っていたのです 安田理深
いのちが粗末にされているのではなく いのちに向き合う姿勢が粗末なのだ (佛光寺)
他人を思い通りにはしたいが、自分を思い通りにはさせない私
生きるということ それは つねに誕生の意義を 問われ続けることである (広瀬杲師
はやく咲いてほしい ながく咲いてほしい 私のおもいにかかわらず 花は咲き 花は散る
無明とは何も分からないことではない、すべて分かったつもりでいる心のことだ 宮城 顗(しずか)師
過ちが人間を決めるのではなく 過ちの後が人間を決めるのです 東井義雄師
「聞」 耳を澄ませて 自らの深い ところに在る 声を聞く
念仏というのは、心を仏様の世界と、つなぐこと。
ない ないと 数えはじめると 渇いてくる ある あると 数えはじめると 満たされてくる
因を外に求める限り 苦悩は無くならない 人間とは 自ら苦悩を 生み出す生き物
行き先が分かれば 行き方が分かる 往き先が分かれば 生き方が分かる (仏光寺)
かれあれば これあり 子あれば 親あり 亡き人あれば 生者あり 私だけでは 存在しない
いのちは大事だと言う人は多い だが いのちを粗末にしていると気づく人は少ない
あいにくの雨 めぐみの雨 あいにくの雨 めぐみの雨 自我の思いが ひとつの雨を ふたつに分ける
老をきらい 病をおそれ 死をかくせば 生もかくれる
亡き人を なぐさめ しずめると 思っていた私が 亡き人に 養われ 願われていた
浄土を願うということは この世の懺悔である 金子大栄
生かされているということは 結論ではなく 出発点である 池田勇諦
「正義は暗い」 いたみは明るい こまることは なくならない 「明るくこまる」
「聴聞」 聴くといいながら 人はたいてい 聴きたいこと、理解できることしか聴かない 聞こえてくるということがない
合掌 右手の悲しみを 左手がささえ 左手の決意を 右手がうけとめる (高田敏子)
人間に生まれた者は 必ず深い いのちの願いを 持っている (和田稠)
私たちはどうも、なすべき唯一のことをしていないときに、もっとも忙しいようである エリック・ホッファー
自分に非があること、自分の考えに誤りがあること、自分の視線が偏向していること、これらを認めるのが大の苦手、自分の考えに固執する。
戦争は終わっていない。なぜならば、戦争の罪が人間の根源的な罪として問われてこなかった。人間の持つ無明の罪として。 武宮聰雄
人間に独りで出来ることなんて まず ない つねに 他に恵まれてこそ 人は在る 『折々のことば』
仏教の不殺生(アヒンサー)の教えは 生命(いのち)あるものを殺すな というだけでなく 自他の生命(いのち)を生かす、大切に生きるということである
本当の自分がわからない人は 他人を責める 本当の自分がわかった人は 他人を痛む
父の骨からこのような言葉が聞こえてきた 「ここからもう一度、お前がしておることを考えてみろ」 宮城 顗
自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にして 思考を停止しない 考えつづけることが 今 求められている
「一切衆生 悉有仏性」 ということは、ほんとうのことを話せば、だれにもわかるということです。(金子大栄)
拠り所なくしては 人間は生きていない (広瀬 杲)
自分に都合がよければ 相手の悪も善にみえ 自分の都合が悪ければ 相手の善も悪にみえる (毎田周一)
み仏に 救われありと 思い得ば 嘆きは消えむ 消えずともよし 伊藤佐千夫
我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴無し
亡き父母を 縁(えにし)に出遇う 無量の寿仏(ほとけ)
死 それは生を脅かす暗い影なのか それとも 生を純化する透明な光なのか
人のわろき事は、よくよくみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。
自由とは 不自由なことが 苦にならないこと
人は迂闊にも思っている 「自力で生きている」と。 他力の信心とは 「生かされている自分」と 「生かしてくださる仏」に出遇うことである
生死の苦しみを逃れようとして 生死に苦しんでいる これが迷いである (曽我量深)
念仏申すということは 念ぜられている自分のいのちに 出遇うということ (宮城 顗)
後ろめたい事を 秘密にしつづけると いつの間にか 正しい事にしてしまう だから いつも鏡が必要なのです
何の為に生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなの嫌だ 何が君の幸せ 何をして喜ぶ 解らないまま終る そんなの嫌だ (やなせたかし)
「空過」 もし健康と長生きだけが幸せだとするならば 最後は死という不幸で終わっていく そこに本当の幸せがあるだろうか
生死一如 片方ばかりみているから まちがう
やりなおしのできない人生とは知っている しかし分かったように生活はしていない
故郷に帰れないから帰らないのと 帰れるけれども帰らないのとは違うのです 伊奈教勝
人間とは 自分で自分の始末を 仕切れぬ者の 別名である (高光大船)
あなたのなかの ほとけさまが わたしのなかの ほとけさまに 微笑みかける (祖父江 文宏)
人間は 自分は絶対に正しいと思い込んだ時に 最も残酷な事をする (司馬遼太郎)
ここに居て 喜べず ずい分よそを捜したが ここをはなれて 喜びは どこにもなかった 浅田正作
苦しみがなくなるということは、苦しみを生かしていくことができるということ (蓬茨祖運)
私が 私の 存在の背景を知るということが 恩を知るということである
煤はきて 心の煤は かへり見ず (越智越人)
現在の自分が、 今の如くあるのは、 これまで どのような出会いをしてきたのか、の結果。 よき人と出会いたい。 (平野修)
如来様は 私たちに 「生きてよし 死してよし どことても み手のまんなか」 の世界を お恵み くださっている 東井義雄
称えさせて下さる お方がなくて この罪悪のわが身が どうして佛のみ名を 称えることができようか
彼岸 亡き人の呼びかけ 亡き人から与えられた課題 それを縁として教えを聞き開き この"此岸"を生きていく
過去に目を閉ざす者は 結局のところ 現在にも盲目となる
快適な事 便利な事ばかりを追い続けていると いつの間にか不自由になる 重くなった「からだ」を見ればよく分る 「自然」からの逆襲だ (平野 修)
宿縁の業重くして 久しく近づきて夫妻なり 体を別にして 心を同じくす (善導)
苦しんでいることは 救いではないが 救いの縁となりうる (安田理深)
わが身のいとなみに行きづまりはない ただ 行きづまるのは自我のおもいだけである (広瀬 杲)
浄土にて待つ (廣瀬 杲)
私共の生活は 恩をうくる生活であると同時に 恩に報ゆる生活である (暁烏 敏)
本当の自分が分からんから 本当でないものを 本当だと思っていた (安田理深)
死とは 死を賭して 周りの者を導く 人生最後の授業 (藤原新也)
先祖を思う心は わがいのちの 深さを思う こころである
自分の都合で 亡き人を 鬼にしている この私
聞法とは 私の「考え」の物差しが 教えによって 問い返されるということ (池田勇諦)
「自然」 豪雨に襲われ 家がこわされ 橋が流され 人命が失われた けれど 人間が引き起こす 戦争や環境破壊に比べ 自然はやさしい (浅田正作)
「忘れない」 ということは ただおぼえているというものではなく 「これでいいのか」と問いつづけることである
生きているということは 死ぬいのちをかかえているということ (東井義雄)
お浄土で 親鸞聖人は 穢土を生きる私を 待っていて下さる (広瀬 杲)
過去は死者がつくってきた その死者の声を聞くことで 歴史はつながってくる (門脇 健)
前(さき)に生まれん者(もの)は後(のち)を導き 後に生まれん者(ひと)は前を訪え
じっとしておれない というところに 求道生活ははじまる (和田 稠)
掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も
知らぬ間撮られた写真 気に入らないが そのままの自分が写っている (浅田 正作)
「無量寿」 自らも生き 他を生かし続ける いのち
「無慙愧」は名づけて「人」とせず。名づけて「畜生」とす。(「涅槃経」) 慙愧は恥じらいの心、悔ゆる心である。
楽を追えば 楽は逃げていく 苦から逃げれば 苦は追いかけて来る
いろいろと 覚えたばかりに 愚者になれず 身うごきがとれません (浅田正作)
大事なものが 手に入らないのは 要らないものを もちすぎて いるからです (中野良俊)
宗教は人を救うものでなくてはならない しかし、それは人の苦悩を救うのではなく 苦悩する人を救うのです (梶原 敬一)
佛を念ずるということは 我が身の煩悩 浅ましき生きざまが見える ということです (曽我量深)
世をうれい 人をかなしみ 内にふかくこの身をいたむ 念仏の声はそこに聞こえる
「骨道を行く」 人生 それは絶望以上の 現実だった だが この苦悩に 身を投じ 骨となって 願いに生きた人がある 骨道ひとすじ 私もこの道を行こう (浅田正作)
生を奪う死は また 生きる意味を与える
地獄とは 楽を求めて 苦しむ世界 極楽とは 苦を転じて 楽しむ世界
アノネ がんばらなくてもいいからさ 具体的に 動くことだね
「後生の一大事」 解散総選挙 日本の方向を選択する 一票というが その一票を決める 自己自身の方向が 選択されているだろうか (浅田正作)
聞いて 覚えて 間に合わそうとする 根性が お蔭さまを よろこぶ 邪魔をしている
「老いる」 人間は 苦悩すべく生まれ 泣くべく育ち やがて死んでゆくべく生きている このいのちのいとなみが どうしてわからなかったのか あの若い日よ
過去無量のいのちのバトンを受けついで いまここに自分の番を生きている (相田 みつを)
亡き人に 迷うなと 拝まれている この私
罪の身を 蚊にも食わせぬ 凡夫かな (句仏)
平成20年以降の掲示板の言葉
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