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人間心を そのままにしておいて 浄土を求めるということは 成り立たない (仲野良俊)

人間心を そのままにしておいて
  浄土を求めるということは 成り立たない (仲野良俊)

 春の彼岸をむかえる三月の掲示板の言葉に、仲野良俊先生の著作の中の言葉を選ばさせていただきました。著作の中で、先生は人間心について「都合のいいことを求め、都合の悪いことから逃げようとする心」であると押さえられています。「浄土を求めるだけならば、都合のよいことを求めることと区別がつかないだろう。浄土を求めることの裏には穢土を厭う心、都合のよいことを求め、都合の悪いことを逃げようとするような人間心を厭う心というものがなければならぬ。」と述べられています。

 あらためて日々の生活の中で、私自身何を中心にして生きているか、と立ち止まってみると、やはり「自分の都合」や「自分の思い」を中心にして生きています。都合のいいことが好きで、都合の悪いことが嫌いという心です。思い通りに事がはこぶと、ニコニコし、思い通りにいかないと腹をたてたり、愚痴をいうのです。こうやって文章にすると、あらためて恐ろしい心だと思いますが、「あの人さえいなければ」と思うことすらあります。この私の心をそのままにして、求められる世界はとても独善的な世界だと思います。

 穢土という言葉があります。浄土に対して、煩悩によって穢された世界をあらわす言葉で、私たちの現実の世界を言い当てた言葉です。そして、この穢土をつくり出しているのは誰かというと、私が嫌いなあの人や、この人ではありません。煩悩具足と教えられている他ならぬ私自身です。仏教は、この「都合のいいことを求め、都合の悪いことから逃げようとする心」、人間心が穢であり、その人間心で出来上がっている世界を穢土と批判しているのでしょう。

 「助かる」とか「救われる」という言葉を使いますが、どういうことが助かることでしょうか。それこそ、自分なりのイメージで助かる、救われるといっているだけで、本当のすくいはわからないのではないでしょうか。もし「自分の都合」や「自分の思い」がかなうことが、助かること、救われる事ならば、思い通りにならないものが徹底的に排除され、最後は誰もいない世界になり、思うようにならない現実の自分自身も受け取ることはできなくなってしまいます。むしろ自他共に助からなくしているのは、自らの思いではないでしょうか。

 浄土はそのような人間心を批判し、真実の願いに目覚ましめるはたらきを持つ世界だといえるのではないでしょうか。「都合のいいことを求め、都合の悪いことから逃げようとする心」という人間心が穢であることを批判するのが浄であり、その如来の悲しみ、願いによって成り立つ世界が浄土です。

 私たちは断ちがたい執着をもっています。生きている限り「都合のいいことを求め、都合の悪いことから逃げようとする心」、人間心があり続けるのでしょう。だからこそ、阿弥陀如来は、念仏を一切衆生にあたえ、呼びかけて、凡夫が凡夫に帰っていくことができる世界、浄土を荘厳されているのです。令和6年 3月 深草誓弥

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