老をきらい 病をおそれ 死をかくせば 生もかくれる
お釈迦様は、老病死する姿を目の当たりにして、出家を決意されたと伝えられています。「四門出遊」という物語です。「人は何故、苦悩が絶えないのだろう」と悩むお釈迦様に、父の王は気晴らしに外出をすすめられました。東の門から城外に出ようとした時には老人を、南の門では病人を、西の門では葬儀の列を見かけました。「私もいつかはあの様になるのだ、この苦しみはのがれることが出来ない」と、暗い気持ちで北の門から出ようとしたとき、一人の聖者に出遇います。老病死の苦悩から解脱を求め修行する、その気高き姿を見たお釈迦様は出家を決意され、お城を出て行かれます。仏説無量寿経では 「老・病・死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう。」と記されています。
お釈迦様にとって老病死は、避けては通れない身の現実として直視されました。老病死が他人事ではない、自分の課題として切実な問いとなったときに、人生の意味を訪ね求めていく歩みが始まるのだと、この四門出遊の物語は伝えているのだと思います。
私達もお釈迦様と変わらず同じ様に、老病死の現実の直中に生活しています。しかし今月の言葉のように「老をきらい 病をおそれ 死をかくす」姿が現実の日常の生活ではないでしょうか。
アンチエイジングがはやる現代、大金を費やしてまでも若く美しい人がもてはやされ、「健康のためなら死んでもいい」と笑い話にもなるほどの健康ブーム。マスメディアもはやしたてるように若さと健康を美化し、大衆もその情報に流されています。テレビCMのほとんどは、健康食品と美容薬品の宣伝ばかりです。
そして厳粛な葬儀の現場では、火葬場で済ます直葬が増え、ますます生活の場から死が遠のき、見えずらくなっています。若く健康で快適な生活を求めてきた私達は、生の事実である老病死を生活から切り離してしまいました。その結果、みんなが明るく生きやすい社会になったかというとそうではありません。大人も子供も老人も暗く孤独な人が増え、人生に不安を抱えている人が少なくありません。「終活」という言葉が象徴するように、死後のことも自分で手配しなければならず、誰かに任せて死んでいくことが出来ないのです。それは同時に、安心して生きることが出来ない姿を現しているように思います。
清沢満之先生は「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」という言葉を残しておられます。これは仏教の教えによって育てられた生命感覚であります。お釈迦様も出家の際に深く悩まれたように、人生において生も死も同時に私の中にあって、老病死していく身をどう生きていくかが、人生の大きな課題としてあります。
仏教教団は、葬儀を大切にお勤めしてきました。それは亡き人を供養し成仏させるためではなく、生きている私達が死んでいく身をどう生きていくかを、身近な人の死を縁にして仏法に訪ねて来られたのです。そして亡き先祖の方々は私達に向かって「老病死する身の事実を受け止めて、限りあるいのちを生ききって下さい」と願いをかけて下さっているのではないでしょうか。 (貢清春)