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人間に独りで出来ることなんて まず ない つねに 他に恵まれてこそ 人は在る  『折々のことば』

人間に独りで出来ることなんて まず ない
      つねに 他に恵まれてこそ 人は在る  『折々のことば』

 授かった子どもが大きくなるにつれて、様々なことが出来るようになりました。朝、目が覚めると自分でベッドから降り、「お母さんは?」、「パン、食べる」と言葉を発し、意に沿わないことは「嫌」といい、口に食べ物を運び、おまるでおしっこをし、歩いて保育園にいく。少し前までは出来なかったことです。

 その姿を見ていて、単純に、「自分もこうやって両親から教えてもらって、今出来るんだな」と感じます。現在、毎日生活するなかで様々に行動し、言葉にし、思い考えることも、両親、祖父母、先生、友人など様々な影響を受けてしていることです。

 私たちは「無有代者」「有(たれ)も代(か)わる者無し」(『大経』下巻 聖典60頁)と教えられるように、いつでもない今、どこでもないここに、誰かに代わってもらうことも、代わってあげられることもできない身を生きています。しかし、このことは私達が誰とも関係のないまま、孤立した存在としてあるということではありません。私たちは「無有代者」の存在として事実、「天にも地にも我ひとり」ですが、我一人であるがままに世界中のあらゆる存在と、直接、間接的に関係しあって生きているのも事実です。

 ティク・ナット・ハンというベトナム出身の禅僧は「この一枚の紙のなかに雲が浮かんでいる」と語られました。万物の相依相待性をあらわす縁起の言葉です。一枚の紙の存在は、雲の存在に依存しています。雲なしには水はなく、水なしには樹木は育たず、樹木なしには紙はできません。紙を作るには木を切る人がいりますし、他にも太陽の光、土。様々なものが一枚の紙の中にあるといえます。

 私もこの相互依存の関係のなかに生きていながら、そのことを見失っているのです。「自分のこと」と「他のこと」を区別し、自分だけを愛し、自分に関係あると思うことだけに関心を寄せ、生活しています。そこには掲示板の言葉にあるような「独りで出来る」、自分で自分を支えているという思いがあります。しかし、その「独り」は私のおごり、あなどりが生み出すものです。ですから身近な父母や友達にしても、親鸞聖人といい、蓮如上人といっても、決して私と無関係な存在ではありません。昨日食べた豚肉が、私の血になり、活動を支えています。

 「つねに 他に恵まれてこそ 人は在る」
 この事実を、道理を見失い、いつでも自我を中心とする「独り」に堕落し、生きている私。 

 「個人というのは幻想です。全員で往生するんですよ。」
 と、おりにふれて語られた、竹中智秀先生の言葉を憶い起こします。事実は「共に生きている」のです。  (深草誓弥)

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