無明とは何も分からないことではない、すべて分かったつもりでいる心のことだ 宮城 顗(しずか)師
車で運転中に道を間違えて迷子になることがあります。久しぶりに通る道で、昔の記憶と経験を頼りに進んで行ったら全く違う筋に入ってしまい、知らない別の場所に着いてしまった、という経験は皆さんにはないでしょうか。「道を間違った」と気がついたときにはもう既に遅く、かなり奥に進んでしまっていて自分がどこにいるのかも分かりません。迷子になった原因はただ一つ、「自分の記憶は正しい、自分は全て分かっている、自分は間違わない」という思い込みです。
迷っていることすら気が付いていない、迷っている自覚が無い状態の時が一番危険です。なぜならその様な人は他人の言葉にも耳を貸さずに、この道は正しいと自信満々で進んでいるのですから、たとえ「あなた迷っているよ」と他人から言われても、立ち止まったり、自分の道を振り返る事をしようとしません。自分の力のみを頼りにしていると、どんどん深い迷いへと堕ちてゆくばかりです。
「無明」とは、文字通り「明かりがない、真っ暗闇で何も見えない」ということですが、この言葉は仏教語で、人間の迷いのことを指します。仰ぐべき光(教え)が無く、ただ自分の経験と知識だけを頼りにして生きている人の姿を言い表し、「私は何でも分かっている、教えられなくても知っている」と思う心が、迷いの根っこになっていると教えられています。人間の知恵を最大の依り所にしている現代人の姿を鑑みると、この様な「分かっている、分かったつもり」の人が多いのではないでしょうか。
親鸞聖人は、『教行信証』の総序の文に「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」(何ものにもさまたげられない阿弥陀の光明は、迷いの根源である無明の闇を破る、太陽そのものである。)と述べておられます。またご和讃の第一首目に「法身の光輪きわもなく、世の盲冥をてらすなり」とも讃歎されます。阿弥陀の智慧の光に遇うということは、私を照らす教えに遇うということです。自分では気がつかなかった心の闇の深さ、迷いの深さを知らされていくのだとこの言葉は語ります。
さらに展開していくと、迷い苦しむ我が身の事実を、誤魔化さずにしっかりと見つめることのできるの眼をいただくということなのです。その眼が開かれた時にはすでに、迷いが迷いで無くなっているのです。私が迷っていたと気が付いたときには、その境遇から離れようとします。そして迷っていることを自覚出来た人は、道を詳しく知る人に尋ねようとするはずです。道を知るその人のお言葉によって、進むべき正しい方向が決められていくのでしょう。
自分の知っている事以外は何も知りません。これは当たり前のようですが、私達はそこに気付いていないのかもしれません。だからこそ阿弥陀の光に遇う、教えに遇うご縁を大事にして生活しなければならないのです。 (貢清春)平成29年3月