み仏は いつもやわらかに わたしのこころを みつめている
いらいらするわたしを (小野清一郎)
先日、ドラッグストアーでレジ待ちをしていると、私の順番の前でおばあさんが支払いに手間がかかり、しばらくの間待たされたことがありました。その時私は忙しくバタバタしていたので少々焦り気味でした。会計を済ませるとそのおばあさんは、御礼も言わず黙ったまま店を出て行かれたのです。「こういう年寄りには、なりたくないな」と思いながらも私の番に来た時に店員さんから「申し訳ございません、大変お待たせしました」と丁寧な口調で対応してくださったので、「いつか行く道ですから、そのうち私もそうなりますよ、あははは、、、」と、余裕ぶった口調で返事をして、お店を後にしました。しかしその言葉とは裏腹に、時間を奪われた事の腹立たしさと、頭を下げることの無いおばあさんの無神経さにイライラとしていた事を思い出しましていました。
人間の目は外側に付いている為に、外に見える世界の事や、他人の姿などはくまなく見ることが出来ます。その目は事実ありのままの姿を映しているのですが、私の心のものさしを通すとありのままに受け取れません。全てを分別する私のこころのものさしは、自分の都合で「善し、悪し」と瞬時に分けていきます。良い条件がそろえば寛容な心を持つこともありますが、別の不都合な条件がそろえば鬼の様な心になる事もあります。自分のことはいつも棚に上げて、他人の批判をすることばかりをしています。そうやって自分の思いにかなうものならば良い気分になり、思いにかなわない事があると腹を立ててイライラする心をおこすのです。
今月の言葉は、そういう私を仏様は「みつめている」と説かれます。ここで注意していただきたいのは、仏様からやわらかにみつめられて、その結果私の心もやわらかになるとは説かれません。イライラする私をそのままにしてみつめて下さるというのです。これはどういう意味があるかというと、煩悩いっぱいで生きている私達の日常の中に仏様がはたらいておいでになって、煩悩の存在でしかない私をそのままに大悲心をもって呼びかけてくださるお方が仏様であったということです。
正信偈の文には
『煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 (煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲ものうきことなく、常に我を照したまう、といえり。)』
とあります。自分が起こす煩悩の目では、仏のはたらきが見えないのだけれども、阿弥陀仏の大悲の光は、決してあきらめることなく、常に私を照らし護ってくださるのだという意味です。イライラする煩悩の心がさまたげとなって仏様に出会えないというわけではありません。この様な私が煩悩のこの身のままで、阿弥陀様の大悲のこころに包まれ、照らされているということです。照らされる、ということは、我が身の姿が明らかになるということです。イライラする煩悩を持ち合わせている私だからこそ、本願の救いの目当てとされていているのです。その事を知らされると煩悩は仏法に出遇っていくための、大きな手がかり「ご縁」と転じられていきます。
お寺に参っている時も参らない時も、仏様を忘れている時も寝ている時も、私が気がつく前から願いをかけてくださる仏様が阿弥陀如来です。イライラは起こさない方が良いことは分かっていますが、ご縁次第でいつでも起す私です。そういう私の為に建てられたのがご本願であり、その心に気付いてほしいと私にお念仏を回向してくださいました。この煩悩を突き破って私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てきてくださる事を有り難く頂戴いたしましょう。 令和3年 1月 貢清春