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「たとい所有者の承諾があったとしても 本当にそれが必要でなければ  他人から何かを受け取るのは盗みです」 ガンディー『獄中からの手紙』  本当に必要なのか 自分でしっかり検証すること

「たとい所有者の承諾があったとしても 本当にそれが必要でなければ
 他人から何かを受け取るのは盗みです」 ガンディー『獄中からの手紙』
 本当に必要なのか 自分でしっかり検証すること

 「インド独立の父」とも呼ばれ、身をもって実践した「非暴力不服従主義」の精神でイギリスの植民地であったインドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンディー。1930年、イギリスの塩の専売制度に対する抗議行動「塩の行進」を行って逮捕され、60歳を超えていたガンディーは投獄されます。牢獄にとらわれている中、弟子たちに正しい行動原理を教える手紙を書かれました。その言葉をまとめたものが「獄中からの手紙」で、主要な戒律を同志たちに説明しています。

 今月の言葉はその手紙の中で「不盗」というテーマの箇所に記されてあります。他人の物を盗むのは当然してはいけない行為ですが、必要でない物を所有する事も盗みに等しいとガンディーは伝えています。まずは何故、仏教が盗みを問題にしているのか考えてみたいと思います。

 仏教の戒律(十善戒)の中に、「不偸盗(ふちゅうとう)」があります。他人の物を盗ってはいけないという事ですが、この偸盗を別名「不与取(ふよしゅ)」とも言われ、「与えずして取る」という意味があります。自分は種まきを一つもしていないのに、結果だけを奪い取り所有するということです。物を盗む行為は法律で罰があるからしてはいけないという事だけではありません。盗むとは、他人が時間をこしらえて作った物を奪い取るという事であり、その人の人生そのものを奪い取る行為でもあるわけです。だから他から盗ってきた物は、自分には相応しくない物なのです。ガンディーはさらに深く「無所有即清貧」というテーマ箇所において展開されます。

 「たとえ、本来は盗んだ物でなくとも、(たとい所有者の承諾があったとしても)わたしたちが必要でない物を所有しているなら、それは盗品とみなされなければなりません」 と説かれています。私たちの日常感覚として、相手から了解・承諾を得て所有しているのなら別に問題が無いように思われますが、必要でない物を所有する事自体にも問題がある、と説かれるのです。なぜここまで徹底していかれるのかといいますと、この書の中で「もし各人が必要な物だけを所有するなら、ひとりとして困窮する者はなく、万人が満足に暮らしていけましょう」と、皆が安心して生活できる世の中を実現しようと願われたからなのです。

 必要以上の物を一部の人が所有することによって貧困が蔓延し、貧富の差が広がっていくという現実は、現代の格差社会にもあてはまります。金持ちはさらに金持ちになり、貧困層はさらに増えていくという状況にガンディーは「万人が満足して暮らせる世界、困窮する者の無い世界」を教えに依りながら求められたのでした。自分に必要な物だけで、自分に相応しい環境の中で生きていく事で「盗まない」という生活を真摯に体現していこうとされたのだと思います。

 ここ福浄寺がある川棚の地では、石木ダムの必要性が疑問視される中、建設計画が粛々と進められています。本来ダムというのは「利水」と「治水」という目的のために建造されます。利水というのは生活用水や農業用水等を確保し使用する事を言い、治水とは大雨の時に洪水被害を軽減するために川へ流れる水の量を調整する事を言うそうです。石木ダムで貯めた水は佐世保へ送水する計画ですが、佐世保市の水の需要は減少傾向にあり、本当に水が不足しているのかは疑問視されています。そして治水の面をみますと、川棚川の支流である石木川は、川棚川の水量の10分の1しか流入しないために、石木川にダムを造ったとしても洪水を防ぐ事はできません。ダムを造る目的である「利水・治水」両面からみても必要性は無いように思われます。

 ダム建設予定地の川原(こうばる)に住み続ける人たちの人生を奪い、自然環境を奪い、県民から預かった税金(お金は、その人の人生において費やした時間そのもの)を盗んでまで造る必要がどこにあるのでしょうか。しっかりと再検証する必要があるように思われます。現代にもしガンディーが生きていたなら、今月の言葉そのままを私たちに発信されたに違いありません。 令和1年11月 貢清春

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