平成22年3月
宗教は人を救うものでなくてはならない
しかし、それは人の苦悩を救うのではなく
苦悩する人を救うのです (梶原 敬一)
私たちは「宗教」というものをどのように捉えているでしょうか。掲示板のことばにあるように、「人を救うもの」、私の苦しみを解放してくれるもの、と一般的には解釈されていると思います。しかし、「人を救うもの」という意味を、「自分の苦悩を救う」もの、言い換えると、不安や悩みを取り除いてくれるもの、として捉えていないでしょうか。
もしそうであるならば、自分が持っている不安や悩み、願いといった苦悩は、問題が解決すると、その時は有り難く幸せな気持ちになりますが、その喜びはその時で終わり、また違う新たな苦悩を生じさせることになります。何故なら、私たちの考える苦悩とは、私たちの都合や欲で作り出されるもので、その欲には限りがないからです。また、苦悩が解決しなければ、「何で私だけが・・・」「こんなに頑張っているのに・・・」と、責任を他に押しつけてしまいます。そうするとこれは、自分の都合で「宗教」を利用しているだけになってしまうのです。自分の都合で「宗教」を捉え、そこで救われたと勘違いする、その繰り返しです。そこには自分自身を見つめ、振り返るということがありません。
しかし、「苦悩する人を救う」とは、その苦悩がどんなものであろうとも、現実には解決できないことであっても、苦悩したままの自分をそのまま救ってくださるということです。それは、苦悩が解決した、ということではありません。現実はそのままですが、苦悩を持ちながらでも、そこに安心して身を置いて生活することができるということです。
何故そのようなことができるのでしょうか。それは、苦悩する自分というものを徹底して明らかにし、苦悩の原因を作っているのは自分自身であるということを教えてくださるからです。そして、私たちが考える以上の深い苦悩を抱えた自分をまるごと救ってくださる教えが、浄土真宗の教えです。
「宗教」とは、苦悩を解決してくれるものではなく、苦悩の中で、居直りや責任転嫁しない、積極的な生活を送ることが出来る“拠り所”となるものではないでしょうか。
(深草 教子)