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「己れに願いはなくとも、願いをかけられた身である」 藤元正樹

「己れに願いはなくとも、願いをかけられた身である」 藤元正樹

 いやいや、私には願いはあります。家内安全、無病息災、商売繁盛、息子が受験合格して欲しい、娘が結婚して欲しい、宝くじも当たって欲しいし、・・・等々。私たち人間は、何事にも思い通りになることが大好きな生き物なので、沢山の願い事が湧き出てきます。そして願いを叶える為に神仏にお祈りを捧げるのだと思っていますが、浄土真宗では仏様に願うのではなく、仏様の願いを聞くことを大切にします。

 今月の言葉の藤元正樹先生も「願いをかけられた身だ」と言われます。私たちはどういう願いがかけられているのかを、尋ねてみたいと思います。

 1922年(大正11年)に来日したアインシュタインは、真宗大谷派の僧侶、近角常観師(ちかずみ じょうかん)と対談されたことがあったそうです。「仏様とはどんなお方ですか」とのお訪ねに近角師は、「姥(うば)捨て山」の話を例にあげて説明されたそうです。

 昔、日本のある地域には、高齢の老人を口減らしのために山へ捨てなければならないという掟がありました。掟の通りに若い息子は、年老いた母を背負って姥捨て山の奥へと入っていきます。ところがその道すがら、背負われた母親がしきりに木の枝を折っては道々に捨てているのを息子は気が付きます。「ひょっとして、母親はこの木の枝をたどって帰って来るつもりではないか」と疑い、さげすむ目で見ていました。
 とうとう捨て場所にやってきて母を降ろして帰ろうとしたその時、母親が「山もだいぶん奥まで来た。お前が村に帰るときに道に迷わないように枝を折って道に落としておいたから、それを頼りにしていけば間違えることなく帰れるから、気を付けて帰れよ」やさしい眼差しで、子どもに対し手を合わせ拝んでいる姿に、息子は泣き崩れました。
 「なんと私は恐ろしいことを考えていたのだろう。わたしは母を捨てよう、帰ってきてもらっては困ると考えていたのに、母は捨てられるのにも関わらず私のことを案じていてくれる」息子は母に両手をついて謝り、母を再び背中に乗せて山を降りました。

 「この母親の姿こそ、仏様の姿であります」と、近角師はおっしゃられたそうです。我が身を捨ててまで、唯ひたすら我が子の無事を心配している。苦悩の衆生に対して願いをかけ続けて下さる存在が仏様だというのです。帰国するアインシュタインは「日本人がこのような温かい深い宗教を持っていることはこの上もない幸せなことです。日本に来てこんな素晴らしい教えに出会えたことは私にとって何にも勝るものでした」と語ったそうです。

 真宗宗歌の3番には「み親の徳の尊さを・・・」という歌詞があります。「み親」とは阿弥陀さまをお呼びする尊称です。阿弥陀さまが私を一人子のように心配し、生かそう生かそうと願いをかけ続けてくださる姿は、親心そのものであります。自分勝手な願い(我欲)を叶えて欲しいと祈りを捧げている私たちに、正しい道を歩め、という声に出会うと「み親、親さま」と呼ばずにはおれません。
 阿弥陀の本願をたずねていくと、「念仏を称えて浄土へ往生する人となって下さい、それが本当の救いとなるのですよ」と、絶え間ない願いがかけられている事を知らされるのでした。 (貢清春)平成29年11月

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