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大事なものが 手に入らないのは 要らないものを もちすぎて いるからです (中野良俊)

平成22年4月

大事なものが 手に入らないのは 要らないものを もちすぎて いるからです
                           (中野良俊)

  段々と暖かくなってきました。衣替えは終わりましたか。「この冬、着なかった服がたくさんある」衣替え作業をしているときに思い知らされます。衣装ケースから出した服の半分は、お日様に当たることなく半年後には衣装ケースに逆戻り。その事を春と秋に何度も繰り返しているこの頃です。

 服は捨てなければたまってしまうと分かりつつも、もったいなくて捨てられないのが実状です。色々ありますが様々な執着心をふり捨てて、「もちすぎている要らないもの」を、この春すっきり捨てたいものです。

 生活用品には「捨てるもの捨てないもの、要るもの要らないもの」が判断できますが、自分自身の生き方に於いて、人間として生きる上で「捨てるもの捨てないもの、要るもの要らないもの」とは一体なんでしょうか。その事を教えてくださるのが仏教でありましょう。

 中国の高僧、曇鸞大師は「大集経」というお経の註釈中に病にかかり療養中、道教の第一人者、陶弘景を訪ね、不老長生を説く「仙経」を授かりました。しかし故郷へ帰る途中、菩提流支に会い「観無量寿経こそが長生不死の経である」と諭されて、その場で仙経を焼き、浄土教に帰依したという話があります。

 曇鸞大師は「お経を注釈するには健康第一」という思いから仙経を求めました。この「健康第一」は私達の日常生活においてはとても大事な事ですし、その健康に安心を求めます。しかし菩提流支は、浄土に帰依することによって開かれる無量寿の世界こそが長生不死の法であると教えました。その世界は、自分がいつ終わっても悔いのない大安心の人生を開かせる教えであります。病におびえることのない、老いをきらう必要もない、娑婆の縁が尽きれば安心して死んで往ける教えです。

 初めは仏教を学びながらも、仙経という外道を求めていた曇鸞大師は、外道に迷うこころが深ければこそ、迷いから覚めることも深かったのでありましょう。「要らないもの(仙経)」が「大事なもの(観無量寿経・浄土の教え)」に出会うことによって知らされ、捨てることが出来た。真実に出会った時には捨てなければならないものがはっきりする。そういうことを教えられているようです。

 親鸞聖人においても人生の転換期にその様な体験があります。比叡山を出て吉水の法然上人に出遇った感動を「雑行を棄てて、本願に帰す」と表白されました。「本願に帰す」とは仏の呼びかけにこたえ、他力真実の教えに生きてゆく事であり、執着や迷いを生む自力の行はすべて「雑行」であるとすてられました。

 現実の生活は、雑行を好む心でいっぱいですし、教えられたから無くなるものでもありません。また無くすことが本願の目的ではありません。曇鸞大師と親鸞聖人の2つの物語は、大事なものが手に入り、要らないものにしがみついていた自分が知らされた、そしてしがみつく必要が無くなった、ということを表しているようです。しがみつく必要が無くなったということは、「捨てた」事と同じであります。

 「私の人生でしがみついている要らないものは何かな、大事なものに出会ってきたかな」と、捨てられない服と向き合いながら衣替えをしてみるのも、面白いものがあるかもしれません。

(貢清春筆)

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