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顔を寄せ合い対話すること 手を重ね合わせること それがどれほど貴重で 脆(もろ)いものであるかを 私たちはついに知ってしまった 月永 理絵

 顔を寄せ合い対話すること 手を重ね合わせること 
 それがどれほど貴重で 脆(もろ)いものであるかを
 私たちはついに知ってしまった   月永理絵 (5月1日 朝日新聞夕刊から)

 国内で初めて新型コロナウイルス感染者が確認されたと発表があったのが1月16日。2月にはクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号での集団感染が発生し、日本国内の感染者数は、3月終盤以降に急増しました。4月7日、東京都や大阪府、福岡県など7都府県を対象に5月6日までの期間、「緊急事態宣言」が出されました。それに合わせて開かれた会見で、安倍首相は「緊急事態宣言」を1か月で脱するために、人と人との接触を「最低7割、極力8割」減らす目標を掲げ、国民に外出自粛などの徹底を呼びかけました。さらに16日にはこの「緊急事態宣言」の対象が全国に拡大されました。新型コロナウイルス感染拡大を受け、それまでの生活で当たり前だった、「顔を寄せ合い対話すること」、「手を重ね合わせること」は、「濃厚接触」、「三密」という状態であることが指摘され、現在も人との触れ合いは最小限にすることが求められています。

 私たちも、御門徒の御法事にお参りしますと、マスクを着用し、距離をとってお勤めするようにしています。御門徒も、最小限の人数で法事をむかえられているところが多いように思います。まだまだ予断を許さない状況であると思っています。しかし同時に、これまで当たり前のように、葬儀、法事という仏事の場に多くの人がお参りし、ねんごろな対話やふれあいをしてきたことが、掲示板の言葉にあるように「貴重で脆い」ものであるかを、まざまざと見せつけられています。

 振り返れば、私にとって忘れられない学びや、人や言葉との出遇いは、いつも直接対面でした。そして時にそれは向こうから迫ってくるような、濃密なものでした。それこそ、こちらから自分を正当化し、自分を守ろう、距離を取ろう、逃げようとしても、「逃げるな」とおいかけてくるような質のものです。

 葬儀、法事の中止や規模の縮小を受けて、私の中で何か喪失感があったのは事実です。おそらく、当たり前にあった様々な人との直接の「対話」や「触れ合い」がなくなったことで、人間関係にも距離感が生じ、信頼関係も揺らいでしまったように感じています。同時に仏教にも距離感が生まれていくのでしょう。また一面では、脈々と受け継がれてきた仏事が、コロナウイルス感染症対策を隠れ蓑にした、快、不快を中心とする、「自分さえよければそれでいい」というような個人主義によって消えていくような感覚もあります。

 仏教は、人から人に直に伝わってきました。先日、ある御門徒がお寺に参詣されました。年を取られ、足腰が不自由でありながら、息子さん、奥さんに支えられてお参りされました。

 「入院する前に、最後と思うて来ました。
    なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・。」

 ずっとお念仏申されていました。お元気だったころからすると細くなられた手を取って、脇を支えながら、体温や息遣いを感じていました。単純に、私も念仏を申そうと思いました。もちろん感染防止に取り組まなければならないのですが、お念仏の教えを生きるものにとって「対話」、「触れ合い」の大切さをあらためて感じています。   令和2年6月 深草誓弥

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