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苦しんでいることは 救いではないが 救いの縁となりうる (安田理深)

平成24年4月

苦しんでいることは、救いではないが、救いの縁となりうる (安田理深)

 苦しむという事は、イヤだから苦しむのであって、好きで苦しんでいる人は決して居ません。だから「苦しんでいることは、救いではない」事は分かります。しかし、「救いの縁となりうる」「縁となる」という事は、どの様な事をいうのでしょうか。

 苦しみが身や心に起こった時は、瞬時に出て来た苦しみを無くしたいと思います。それは自然の姿で、教えられなくても生まれてこの方その様に生きてきました。私達は苦しむ事が無い状態「楽」を求めて生きているとも云えます。

 苦しむ事が無い時には漫然と暮らしていて、それが当たり前のように、それが自分の本当の姿のように生きてしまいます。しかし、思い通りにならない苦しみが襲ってきた時には「なぜ」「こんなはずではない」と考えてしまいます。そしてその様な時、苦しみの原因は、いつも外にあると思い、私を苦しめる犯人を捜します。そしてそこから逃げるか、又は犯人を退治する(消し去る)かで、苦から逃れようとしている自分があります。

 釈尊は、「一切皆苦」「四諦八聖道」という、苦しみを真正面から受け止められる教えを遺されました。それは、苦は時として「楽」から生まれてくる場合もあり、人間活動全てが苦につながっている。そして苦の因は自身(煩悩執着)から生まれ出て、それを滅する道を八つの聖の道として示されます。

 釈尊のおさとりでは、私を苦しめている原因は外にあるのではなく、自分の中に見ていきます。例えば、誰かが自分の悪口を言ったとします。すると言われた方は腹が立ちます。その時「あいつのせいで」と、腹が立った原因を外に見ていきますが、教えの眼では腹を立たせた人、腹が立った言葉を「縁」と頷いていきます。縁としての条件や環境が整えば、何時でも腹が立つ心を内に持っている、外からの縁(外縁)さえ有れば、苦は内(内因)から現れてくる、という事です。

 様々な縁を通して私の身に苦として実感したという事は、煩悩や執着に苦しむ私全体が救われなければならないという事です。その事において人生における「苦」の意義を、深く見つめていく事になるのだと思います。

 苦から逃げるのではなく、苦と真向かいになり、教えに我を照らしながら「救いの縁にしていく」ことが大切であると、安田先生は教えているのだと思います。そのことによって、みずからの身をよく理解し、人生を深く生きることにつながるのではないでしょうか。

(貢清春)

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