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剣をとる者は みな 剣で滅びる (マタイによる福音書)

剣をとる者は みな 剣で滅びる (マタイによる福音書)

 今月8月は、6日に広島に、続けて9日に長崎に原爆が投下された月であり、15日は日本が敗戦した月です。今年は戦後76年に当たりますが、被爆者が高齢化し、亡くなっていく中で、風化という問題がマスコミで報道されています。

 しかし、一方で時を重ねて伝えたい願いが固まる、伝えたい願いがはっきりするということもあるのではないかとも思っています。しばらく前の出来事です。あるお婆さんのお宅に月忌参りで伺ったのですが、お勤めが終わってお茶をいただきながら、いつものように会話をしていると、「今の日本の雰囲気は戦争に向かって行っているようだ」と切り出され、ご自身が長崎市内で被爆され、凄惨な状況を目の当たりにされたことを語り始められました。そして最後に「この話は息子たちにも、もちろん孫にも話していない。しかし今の日本の雰囲気がまた戦争に向かっているようで、何とかならないかと思い、あなたに話をしようと思った。戦争はしてはいけない。」ということを語られました。

 今回の掲示板の言葉は、キリスト教の教えの言葉です。「剣をとる者は みな 剣で滅びる」十字架を目前にしてイエスが語った言葉のようです。この言葉は決して現実を無視した理想論的な言葉ではなく、むしろ人間の罪の歴史を凝視したところから発せられた言葉だと思います。この言葉の通り、剣をとり、剣で滅びた経験をしたのが私たちです。しかし、その後も国家を守るため、自分を守るために剣にたよる道を歩んでいます。そればかりか、それに合わせて憲法も変えようとしています。

 果たしてこの歩みは正しいといえるでしょうか。「侵略のために戦争する」という国はほとんどなく、いつも戦争を引き起こすのは「国防」、「自衛」の意識からではなかったでしょうか。今も世界では殺戮と報復の連鎖が止まりません。なぜ戦争が起きたのかという問いに、武器を持った過剰な自衛意識が戦争を起こしてきたと日本は学びました。だから「何をしでかすかわからない私」たちは武器を捨てるという憲法を作ったのだと私は思っています。ただ「国を守れ、家族を守れ」と叫ぶだけならば、自衛意識のみが高揚し、また剣をとることにならざるを得ません。

 「我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ」という言葉を改めて思い返します。「剣をとる者は みな 剣で滅びる」おそらくこの言葉は二千年程前から私たち人間の前にあったのだと思います。『無量寿経』には「兵戈無用」という言葉がありますが、「軍隊も武器もいらない」という言葉です。この言葉も「自らに正義あり」と謳い、「兵戈」を用いて殺戮を正当化するようなことがあってはならないという思想から「兵戈」を捨てるために生まれた言葉ではなかったでしょうか。これらの人間の罪の歴史をくぐって紡ぎ出された言葉も、「解釈」次第でいくらでも捻じ曲げることができるでしょう。いつでも自分の方に正義を持ち出すのが私たちの在り方だと教えられています。

 どれだけ美辞麗句を重ねても人が人を殺すことに正義はありません。私は御門徒のお婆さんが被爆体験を私に語られた時の眼差しを忘れることができません。 令和3年 8月 深草誓弥

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