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宿縁の業重くして 久しく近づきて夫妻なり 体を別にして 心を同じくす (善導)

平成24年5月

宿縁の業重くして 久しく近づきて夫妻なり 体を別にして 心を同じくす (善導)

 私たちはこの度、五月四日に仏前にて誓いのことばを述べ、夫婦として新しく生活を始めています。なぜ結婚することができたのだろうかと自身に問うてみますが、不思議としか言い得ないことです。

 しかし、ただそれを運命と言って片付けてしまいたくはありません。何か大きな力によって決められたということでもありません。また、自分勝手に決めたことでもありません。この人と共に生きていきたいと思い立つこころがおこったのです。

 私自身の生活を顧みると、人を愛すると言ってもその本性は我執、自分の思いの中で相手のことを考えることしか出来ません。そこには、我がためにする愛を免れない事実があるのです。掲示板の言葉の中に、「体は別」と言われるのは、釈尊が私たちの存在を「独生(独り生じ) 独死(独り死し) 独去(独り去り) 独来(独り来る)」する者として、自力の心しか持ち合わせずに生きている孤独の生の事実を教え示していることであると思います。それは、うかうかと自分の思いの中だけで生きている私たちに対して、厳粛な事実を言い当てた真実の慈悲の言葉であります。孤独の事実を誤魔化して助かるのではありません。その虚・偽が破られるところに、本当のやさしさが現にあらわれるのです。

 だからこそ、その我執、我が思いに先立って縁が結ばれている意味を、「心を同じくす」という言葉でもって問いかけているのが仏の教えであります。

 「汝ら夫婦ならば、二人の中で同じものは何か」

 私たちは、ものを思うが故に迷い苦しむ存在です。だからこそ、その苦悩を手がかりとして苦悩を超える、共に生きる世界を求める心が確かにあるのだと、仏は呼びかけられているのではないでしょうか。

 「真実に生きよ」と呼びかけられている者として、「体は別」でありながら、「心を同じくす」る。夫婦となった今、共に生きていきたいと思い立ったこころと、「二人の中で同じものは何か」という呼びかけにいつでも帰りながら、生活していきたいと思います。

深草 誓弥

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