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報恩は 知恩にはじまる 親鸞忌

報恩は 知恩にはじまる 親鸞忌

 新しい年になり、今月、1月は福浄寺の報恩講をお迎えする月になります。親鸞聖人の御命日は旧暦の11月28日です。京都の真宗本廟では11月28日までの七昼夜報恩講が勤まります。福浄寺では1月28日までの七昼夜、報恩講を勤めてきています。

 1月16日に仏具のおみがきをし、御華束の餅つき、餅盛、仏華という内陣のお荘厳を御門徒が主体になって作り上げてくださいます。内陣の荘厳が整った後、御本尊の前に座ると、たくさんの人の御苦労をあらためて感じます。140年以上前からある本堂の大きな柱や梁を見ていても、当時の人たちの御苦労が感じられます。

 報恩は、恩に報いると読みます。報は「むくいる」、「こたえる」、「お返しをする」、「知らせる」という意味があります。いずれにしても、恩に報いるためには、「知恩」恩を知ることが無ければ、報いてみようがない、こたえてみようがありません。今月の掲示板の言葉は、親鸞聖人からの恩、さらにさかのぼって阿弥陀如来からの恩を知るところから、報恩がはじまることを教えて下さっている言葉です。

 単純なことかもしれませんが、私より先に、念仏に出遇った人がおられたから、ナムアミダブツが私のところまで届けられています。その人も誰かの念仏にふれて念仏申す人となられたのでしょう。その流れをずっとさかのぼると、親鸞聖人がおられ、法然上人がおられ、さらにさかのぼるとお釈迦さまがおられるのでしょう。無数の人たちの求道が無ければ、私のところにナムアミダブツは届いていません。私たちは、その目の前に届けられた贈り物の大きさ、重さ。贈り物に込められた願いがあることを知ろうとしてきたでしょうか。

 私自身、日々の生活は、自分の思いを満たすことに夢中です。面白いテレビ見たり、温泉いったり、おいしいもの食べたり。こういうことが日ごろの私の思いです。阿弥陀さんからの願いを聞こうなんてこころは微塵もないように思われます。でもなぜか、ナムアミダブツに出遇いました。寺に生まれたということも大きな縁だったのかもしれませんが、それだけではないように思います。

 いつでも自分中心で、自分の思いが満たされればそれでいいというようなかたちで歩んでいた私が、なぜかナムアミダブツに出遇いました。私が会おうとして、こちらから求めて、出向いて会ったのではなくて、思いがけず遇っていました。親鸞聖人が「正信偈」を綴り、確かめようとされたのは、そのナムアミダブツとの出遇いについてではないでしょうか。

 不思議なことに、私の日ごろの思いの奥底に本当を願い求めさせるものがあるようです。日ごろそれは、不安やむなしさというかたちで顕在化しているようです。親鸞聖人が「正信偈」をとおして語りかけられているのは、「本当を願い求める心、ずっとその源を尋ねていくと法蔵菩薩がおられるのですよ。阿弥陀さんが法蔵菩薩となって、あなたの内側からはたらきかけておられるのですよ」ということだと思っています。

 幼いころから親しんできた「正信偈」ですが、恩を知るということを手がかりにして、繰り返し、繰り返し、その綴られた言葉を味わっていきたいと思います。

     令和5年 1月 深草誓弥

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