如来様は 私たちに 「生きてよし 死してよし どことても み手のまんなか」
の世界を お恵み くださっている 東井義雄 平成24年11月
死は、誰一人として避けられない問題です。生まれたときから約束された事実ですが、その死はいつ来るかはわかりません。しかし必ずやってきます。しかも老少不定と教えられる様に順番がありません。そう教えられていながらも、
「後生をばかつてねがわず、ただ今生をばいつまでもいきのびんずるようにこそ、おもいはんべれ。」(御文4帖目、第2通)
と蓮如上人が仰るように、自分だけは何故か特別で、いつまでも長生きできるであろう、今の状態がいつまでも続くであろうと考えています。そのことを親鸞聖人は「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」自力の姿として教えられています。その様な自力に生きる、「生き延びたい、死にたくない」という私の日常の心からは「死してよし」という心は生まれて来ません。
我が身をたのむ自力の心は、生きる事だけに執着しているため、死はイヤな事であり、恐怖であるため避けて通ろうとします。さらに死を連想させる「四」という数字さえ、病院やホテルに使えないほど徹底しています。世間の常識でも死はマイナスのイメージしか無く、口にする事もはばかれるという認識です。
東井義雄さんは「生きてよし、死してよし」という安心をいただいておられます。それは人間の自力のはからいから出て来た言葉ではないようです。如来が摂取不捨する、大慈悲のおはたらきによるものです。そのはたらきは、老若男女を問わず、才能の有無や世間の地位も関係なく、どの様な人でも包み込む世界、無条件に摂取して捨てないはたらきです。この身このままが、如来様の恵みの世界の中にあって、自力で右往左往している私でさえ、如来様の手の中で受け止めてくださっている。その様な、あらゆる者を救い遂げようと、はたらき続けている世界に目覚められた言葉であると思われます。
しかし如来様に出会えば、摂取不捨のはたらきに出会えば、浅はかな自力の根性が無くなるという訳ではありません。また、「死にたくない私」が「死が覚悟できる、殊勝な私」となる訳でもありません。そういう自力をたのむ我が身がそのまま「み手のまんなか」で支えられ、信じられ、敬われている。だからこそ「生きてよし 死してよし」と如来様に身をまかせ、人生を託して生きていける。その様にはたらく世界を恵まれるのであり、その世界を親鸞聖人は「浄土」と教えて下さいました。
死は、誰一人として避けられない問題です。死を問う事えば、自然と今の生き方が問われてきます。この人間の切実な問いの為に、如来様の教えが説かれているように思います。今月の東井義雄さんの言葉は、私の生死観を大きく問う言葉としていただきました。
貢 清春