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過去に目を閉ざす者は 結局のところ 現在にも盲目となる

平成24年7月

過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる

 暑くなり8月が近づいてくると、原爆・戦争の体験談や、当時の白黒の映像がセミの声と同時に蘇ってきます。また終戦記念の月でもあり、67年前の日本の事を感ぜずにはおれない時期でもあります。
 ここ数年、特に感じることですが、民放テレビの放送で原爆や戦争に関係する番組は、皆無に等しい事に気づきます。それほど日本人の戦争、原爆に対する関心がないということです。8月15日であってもお笑い番組やクイズ番組を見て夜の時間を過ごし、全く変わらない日常を過ごしてしまう。67年前のあの惨劇に一時でも心を傾けてゆくような時間さえも持てない現代人を、原爆被災者、戦争体験者はどのように見ておられるでしょうか。

 人間の過去の過ちの歴史に目をつむり、日常の快楽だけに翻弄される生き方はまさしく「迷い」であり、現在の生き方をも見失っていく様をヴァイツゼッカーは「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と演説されました。

この言葉は、1985年5月8日、戦後40年の節目の年。当時の西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーが国会で行った演説の中の一言であります。ドイツは第二次世界大戦中、ヒトラーの独裁政治の下、ユダヤ人を大量虐殺した過去の歴史を抱えています。ヴァイツゼッカー大統領はその「負の歴史」の真実に真向かいとなり、間違いを犯した過去に一人一人が責任を負う事の大事さを「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております」と演説されています。

 しかし私自身の実体は、失敗した過去の事にくよくよしたり、無かった事として覆い隠すような事があります。「明日があるさ、明日を信じて前向きに」と、今のこの現実に目をつむり未来に夢見て、現在を直視しない事も多いように感じます。「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」ヴァイツゼッカー大統領はドイツの過去の歴史を直視した上で謙虚に学び、同じ過ち「非人間的な行為」をこの現在に於いて繰り返してはならないと叫ばれます。

 現代における様々な社会問題、いじめや差別、幼児虐待、自死問題、原発事故、等々についても同じ事が云えるのではないかと思います。まずは問題の歴史(負、過ちの歴史)を学ぶ事を通して現在が方向付けられていくのではないでしょうか。

 過去を学ぶ事は、人間(自分自身)を学ぶという事だと思います。自分はそんな事してないから関係無いという事では無く、同じ人間が犯した過ちとして、どこまで我が身の事として掘り下げていけるか、その事が問われれています。

(貢清春)

 

「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するために、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」  
 「荒れ野の40年」ヴァイツゼッカー大統領演説全文 永井清彦訳(岩波書店)より抜粋

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