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人間は 間柄を生きる 関係存在である だから人間という 或る人は「人間人」と言った それを失うと 人間でなくなる

人間は 間柄を生きる 関係存在である だから人間という
 或る人は「人間人」と言った   それを失うと 人間でなくなる

 世界にコロナ禍が訪れて半年以上が経過しました。集まれない、会えない、会話をしたい、ふれ合いたい・・・けど出来ない、というジレンマの中で、私達はコロナから何を問われたのでしょうか。
 2020年のシルバー川柳入賞作品の中に、この様な川柳がありました。
  「円満の 秘訣ソーシャルディスタンス」 
  「我家では 濃厚接触 とんとなし」
 クスッと笑いがこみ上げてきた人は、経験のある人だろうと思います。コロナの前からすでに、夫婦間の一定の距離(ディスタンス)を保たないと関係が成り立たないという悲壮感や、同じ家に住んでいても接触すら無い姿に、自分自身も笑ってしまいました。また、高校生が制作したコロナ川柳では、
  「自粛中 話す相手は ぬいぐるみ」
 友達と出会えない寂しさを誰が癒やしてくれるかというと、ぬいぐるみであることも悲しさを感じました。家の中にあって、本当に言いたいことを聞いてくれる人や、気持ちを分かってくれる人は親や兄弟ではないのです。物を言わずに、じっと話を聞いてくれる(ぬいぐるみ)の方が聞き上手なのかもしれません。自分自身は家族の話し相手になっているのだろうか、と考えさせられました。しかしこれら川柳から、私達の心の底からの願いが明らかになっていると思います。それは、誰とでも心通じる出遇いをしたい、そしてふれ合いながら同じ時を過ごしていきたい、関係を大事にして生きて行きたい、その様に願っているのだと思います。

 親子関係、夫婦関係、仕事場での関係、様々な間柄を生きる私達です。日常生活の中では、他者との関係の中で暮らしていることが時には煩わしく、面倒に思うこともありますが、私達はつながりの中で自分が生まれて、育ち、今こうして生きています。そのつながりそのものが自分自身であり、私のいのちであると言っても過言ではありません。親が居るからこそ私がある、妻が居るからこそ私がある。自分と他人との関係、自分と社会との関係、様々なつながりというものを与えられて生きてきたのです。

 この半年の期間で葬儀や法事のあり方が変化してきました。まず葬儀は親類だけが会葬し、一般の方は参列を控えられます。遠方におられる親類の方も同様に、県をまたいでの移動を自粛される為、会葬する事が出来ません。その後の中陰等の法事も、家族だけの参加となり小人数の法要が多くなりました。
 「三密を 避けてお別れ 家族葬」
というコロナ川柳もありましたが、感染拡大予防の観点からはやむを得ない状態だと思います。しかし今後コロナが終息した後に、今まであった様な沢山の人が集まる葬式や法事を営むことが出来るのか心配です。

 葬儀や法事というのは身近な人の死を悼み悲しみ、その事をご縁にして教えに出遇う大切な儀式です。また、様々な人たちとのつながりを再確認する場所でもあります。別れの時に仏事に参加する機会が少なくなるということは、さらなる個人化が進み、「人」は存在していても、人と人をつなぐ「間」が消え去っていくような気がします。「人間人」という言葉をとある先生は「この言葉は"にんげんにん"とは読まずに、"じんかんじん"と読むべきだ」と教えて下さいました。"あいだ"としての"かん"が強調されている読み方だと思います。この言葉は造語ではありますが、人間という存在を深く見つめた言葉です。関係存在として生きている私達の中に「間」がなくなるという事は、人間としてのいのちを失う大変な危機なのです。そしてその危機が、コロナ禍によって速度を増しているような気がしてなりません。 令和2年 9月 貢清春

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