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行きづまるのは己の行為 困るのはわが思い 自分で作り 自分で苦しむ (佛光寺)

 毎日の生活のなかで、「行きづまり」を感じることが度々あります。努力したけれども、うまくいかなかったり、突然思いもしない出来事がおこったりして、身動きが取れないように感じます。どうあがいても、変えることのできないような閉塞感こそが、「行きづまり」でしょう。そしてその「行きづまり」をもたらしたものは外にあると思って、その状況がどうにか変わらないものかと思います。しかし、今月の掲示板の言葉は、その「行きづまり」をもたらすのは、私が思うような他なるものではなく、自分が作った行為であると教えています。

 少し前の出来事ですが、軽トラックに乗って、町内のごみ処理場にごみを捨てに行きました。車の調子が悪いことを知っていたので、エンジンを切らないようにして、ごみを捨て、帰路に就いたとき、ついにエンジンが止まって、全く動かなくなってしまいました。私は「くそ!」といって、車の外に出て、迎えをたのんで途方に暮れていました。迎えを待つ間、何人かの知り合いの方から声をかけられました。「車の動かんごてなったとですよ」、「なんで、こがんなるとでしょでしょうね」と、恥ずかしさも抱えながら、憤慨していることを伝えました。まさに行きづまり、困っていました。

 この出来事を、今回の掲示板の言葉を通して振り返ってみますと、まず、私は「車の調子が悪い」ことは知っていたわけです。にもかかわらず、「大丈夫だろう」と判断して、車を運転し始めた私。事の発端はここにあるのです。しかし、大丈夫ではなかったから、車は止まったのでしょう。止まるべくして車は止まったのです。それにもかかわらず、私は「大丈夫だと思っていたのに何で止まるのだ」と憤慨したわけです。これも、「大丈夫だろう」と思っていた私の勝手な妄想が、車が止まるという現実によって破れた、ということでしょう。たとえよく整備されて、故障など起こるはずがないと思っていても、止まる時は止まるのでしょう。故障はない方がいいですが、絶対壊れないということは道理に背いています。

 この車が故障した出来事は取るに足らない出来事です。今回の掲示板の言葉について考えている時、すぐに思い返されたのですが、この出来事に限らず、私が「行きづまり」を感じ、「困った」と思っているとき、やはり「これが悪い、あの人が悪い、世界が悪い」と外を恨み、外がどうにか自分の思い通りにいかないものか、とにらんでいるのです。しかし、そもそも世界を自分の思い通りに変えてやろうとする魂胆そのものが、妄想だといわざるを得ません。逆に思い通りにならない世界があるからこそ、「わが思い」、わがままがあらわになっていくのでしょう。

 「行きづまり」を感じ、「困った」と外に怒りの矛先を向けていたのですが、その前に、「何事もなく事が運ぶであろうと思いながら、行動を起こしている自分が見えますか?」ということを今回の掲示板の言葉は問いかけているのではないでしょうか。 (令和1年6月 深草誓弥)

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