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地獄とは 楽を求めて 苦しむ世界  極楽とは 苦を転じて 楽しむ世界

平成21年9月

地獄とは 楽を求めて 苦しむ世界
極楽とは 苦を転じて 楽しむ世界

  日頃、何か悪い行いをすると、「地獄に落ちるよ」と言われたものです。このように、「地獄」という世界は、一般的に死後の世界であると考えられています。しかし、ここで表現されている地獄というものは、どうやら死後の世界ではないようです。

人類は、快適な生活を夢見てあらゆる努力を尽くし、その結果、今の便利な時代をつくり上げました。しかし、便利な時代が抱える問題は、経済危機、環境破壊、人間関係の崩れ等、人類を脅かすほどの大きな問題となり、その恐怖に怯えているのが現状です。楽を求め続けた結果、その要求通りにならない現状に苦しんでいます。「楽を求めて 苦しむ世界」という地獄は、まさに、私たちの自己中心的な生き方そのものだと言えるでしょう。

ある程度の自分の欲求は、努力することで満足感を得る結果がもたらされます。しかし、生きていく上で、現状に満足するということはなく、そこからまた新たなる欲求が生まれてきます。人間はそのような欲求と努力の繰り返しによって、自己の能力を高め、成長してきました。
しかし、これはあくまでも自己の努力で何とかなる領域での話です。
もし、自分の努力ではどうにもならないことと出会ったらどうでしょう。どうにもならないことを、自分の力でどうにかしようとすることほど苦しいことはありません。その思いは叶わないのですから。

仏教は、「すべてのものは、互いに因となり縁となって、繋がり合っている」という「縁起」を説く教えです。そして、その教えは、人間の苦しみの原因を、人間の煩悩(欲)とおさえ、その苦しみからの解放を願って説かれものであり、現代の私たちの問題に繋がる教えであると言えます。

この「縁起」の教えは当たり前のことなのかもしれませんが、自己中心的な生き方の中では、ついつい忘れてしまうことでもあります。
しかし、どうすることもできない自分自身に気が付いた時、仏教が説く「縁起」の教えを通して、自分が今ここにいるということは、あらゆるもののお陰であることに気付けます。そして、どうすることもできないちっぽけな自分がここにいるということが、実は尊いことであり、ありがたいことなのだということに心から頷いていけるのだと思います。

このことに気付き、頷くことができたならば、きっとその世界は、現状に満足しながら楽しんで生きていける世界、つまり、極楽と表現されている「苦を転じて、楽しむ世界」なのでしょう。

しかしながら、人間は現状に満足し続けることができない存在です。
ただ、満足し続けることができないということに気付ける存在、そしてその苦しみから逃れたい、極楽浄土に生まれたいと願うことができる存在でもあります。

どうすることもできない現状から起こる苦しみの中で、仏教の教えを通して自分自身の存在を深く問い続けるよりほか、本当の意味で楽しんで生きていける世界はないようです。

(深草 証子)

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