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やりなおしのできない人生とは知っている しかし分かったように生活はしていない

  やりなおしのできない人生とは知っている 

      しかし分かったように生活はしていない

   「諸行無常、老少不定」・・・度々法話で紹介する言葉です。「一日一日が大事で取り返しの付かない、やりなおしのできない日々を暮らしているのです」と、偉そうに法話として話していますが、その様に自分が確かに理解し、生活しているかと問われると、そうではありません。大事に一日を過ごしているどころか、しなくてもいい事を率先して行い、今しなければならない事を先延ばしにして生きているように思います。まさにこの今月の言葉がぴったりと自分の姿を言い当てています。

   今月の言葉を通して思い浮かぶ言葉が二つあります。まず一つ目は「解学・げがく」です。教えの言葉を学んで、知識として知っていくという学び方。知識的了解を表すもので、仏教を学問や教養として学んでいくという意味があります。

  そして2つ目は「行学・ぎょうがく」です。それは仏教を生活の中で学んでいくという在り方です。人生を通して教えを確かめていこうという了解で、生活に即して仏教を学ぶという意味があります。この二つが仏教の学び方だと言われています。

  今月の言葉でいえば、前半が解学に相当し、後半は行学に相当すると考えられます。そして、私達が仏様の教えをどの様に聞いているかを問われている言葉でもあります。お寺に足を運び、講師の先生の話に耳を傾け、その時だけは分かった気になることがあります。しかし実際の生活では教えどころではなく、善し悪しの自分勝手な分別で過ごし、仏様を拝む様な生活は全くしていない。それは本当に仏法を分かったこと、聞いている事にはならないのかもしれません。

  一見して「行学」が良くて「解学」を否定しているようにも感じますが、そうではありません。私たちの仏道の歩みは、解学として知ることから始まります。そこで知った仏語が、現実の生活の中で苦しみや悩みが起こった時に「そうだった、この事を言われていたんだ」と気づかされることがあります。言い当てられる言葉がないと、苦悩がただ通り過ぎてゆくだけになってしまいます。自身を明らかにしてくださる言葉や法を解学として学んでいればこそ、自身の苦悩から逃げ出さずに、行学としての歩みを生きていけるのではないでしょうか。解学があってこその行学であります。自身の姿が教え(法)によって知らされればこそ、もう一度精進して道を求めようという心が芽生えてくるのでありましょう。

                                 貢清春

 

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