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仏法を聞くとは ありがたい話を聞くのではない 有り難い事実に目覚めること (佐々木蓮磨)

仏法を聞くということは ありがたい話を聞くのではない 有り難い事実に目覚めること (佐々木蓮磨)

 先日亡くなった御門徒のおばあさんの中陰のお参りの時でした。おばあさんには3人の娘さんがいて、それぞれ結婚をして家庭を持っておられますが、その家には数年前から難病を患っておられる60代の娘さんとその旦那さんが同居し、母親の介護をしておられたそうです。中陰のお参りが終わってそのご夫婦と世間話をしていました。話の流れで私の子どもの話題となり、それぞれ大きくなって部活や塾の送り迎えで忙しく、バタバタとせわしい毎日生活していますと話をしていたところ、ふと椅子に座っていた娘さんが「幸せそうですね、これからも幸せが沢山待っていますよ」と、ぽつりと仰いました。その時は「いや、将来の事はわからんですよ、ハハハ」と笑って話をごまかしていたのですが、帰りの車の運転中にその言葉を思い出し、なんだか切なく申し訳なく、やりきれない気持ちになりました。

 実はその娘さん夫婦には、お子さんが居られませんでした。その事は気にも止めず自分の話ばかりをしていました。お参りに来た坊さんは子どもの話をうれしそうに語り、自覚はありませんが語る端々で自慢話の様になっていたのかもしれません。忙しい忙しいといいながら、子育ての不満や愚痴をこぼしていたのかもしれません。娘さんの目から見れば、あなたは与えられている家庭の状況を幸せだと思っていない、有り難く頂戴していない。自分自身は夫に介護してもらいながら、そしてだんだんと体の自由がきかなくなってくる病気と付き合いながら生活をしている。しかしこの坊さんは、自分の都合の善し悪しで良かった悪かったということだけで、いつもそこにある日常の有り難さを感じていない。その様に私の姿が映ったのだと思ったのです。

 私自身、仏法が身のそばにある仕事をしながら、今月のことばの様に今の自分の生活を「有り難い事」だと受け止めていないのだと知らされたご縁でした。どれだけ仏法を聞いたとしても、教えを自分の身に問うことが無ければただの「タメになる話し」「イイ話し」「ありがたい話し」で片付けてしまうわけです。さらに言えば、仏法を聞いている時は分かった様な顔してありがたそうに頷いているけれども、家に帰れば日頃のこころ(善し悪しと分別するこころ)でいつも右往左往しているのです。

 「有り難い」という言葉は、「有ること」が「難い(かたい)(むずかしい)」という意味で、語源では「滅多にないこと」や「珍しく貴重」という意味を表した言葉です。この言葉は法話の前に皆さんと一緒に唱和する「三帰依文」の中にも記されてあります。

 「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。」

 (訳)『人として生まれることの難しい中に、今人として生まれ生きているのです。そしてさらに仏法のご縁に出遇う事はとても難しいのだけれども、今聞くことが出来たのです。』とあります。この三帰依文の言葉は、人として生まれてきたからこそ教えを聞くことが出来た、という一面と、仏法を聴聞するご縁に恵まれたからこそ、人として生まれたことの意味を知らされた、という両方の受け止めが出来ると思います。さらにこのご文は、人として生まれたことも、仏法のご縁に出遇ったことも私が努力して手に入れたものではなく、多くの方々のおはたらきのお陰によっていただく事が出来たのだとも教えています。私の身も環境も、教えを聞くことさえも全てが与えられている事なのだということです。

 この「有り難い」の反対になる言葉は何かというと、「当たり前」という言葉になります。自分の周囲にある沢山の当たり前でないことを見つめ直していくことが、本当に有り難く幸せな事なのだと思わされました。 令和4年7月 貢清春

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