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「南無」とは思いの執着に気づき 「阿弥陀仏」とは本当の明るい自分をひらく力 (仲野良俊)

「南無」とは思いの執着に気づき
 「阿弥陀仏」とは本当の明るい自分をひらく力 (仲野良俊)

 南無阿弥陀仏は呪文ではありません。しかし、南無阿弥陀仏を呪文にしてしまう心が私たちのなかにあるようです。人間が人間以外のものにたよって自分の思い、欲望を叶えてもらおうとする、その心が呪文を求め、南無阿弥陀仏を呪文にしてしまうのだと思います。

 人間はいろいろなことをできる力を持っていますが、その中でも「思う」ということは大きな力です。様々なものを想像し、夢をもって行動することができます。しかし、「思う」ことができるが故に、その思いや考えに固執する、握りしめて離さないということが出てきます。仏教ではその固執を執着と教えます。

 アメリカの大統領選挙も終盤です。トランプ氏の過激な発言が度々報道されてきています。そのようなニュースを見るたびに、「なぜあのように自己主張したり、威張って見せたり、相手をこきおろしたりするのだろう」と思います。しかし同時に「自分の中にもそういう心があるではないか」とも思います。相手を上げたくない、自分を上に置きたいという心です。虚勢を張らずにはおれない心、優越感の奥には劣等感があります。あらためて感じるのは、人間の根本問題は私が私になること、自分に帰ることだと思うのです。

 掲示板にあげた言葉には、「南無阿弥陀仏の「南無」とは思いの執着に気づき「阿弥陀仏」とは本当の明るい自分をひらく力」といわれています。「自分のようなものは駄目だ」と思う、思いの執着に気づき、駄目でもなければ、人一倍偉い自分でもない。引き算も足し算もしなくていい。「本当の明るい自分を開いてくる」のが阿弥陀仏であるということでしょう。

 「南無」ということを形であらわすと礼拝ですが、たまにこういう事をおっしゃる人がおられます。「自分は何も拝んだりしません。そんな卑屈なことはしない」と、さもそれが立派な人間であるようにいわれますが、問題は拝むとか拝まないではなく、拝むべきものが見いだせないことではないでしょうか。

 先にも申しましたが、人間はただ生きているということではなく、思いをもって生きる存在です。苦悩があります。生きていながら生きていることそのものが問題になる、これが人間の人間らしさでしょう。病気で悩む、人間関係で悩む、いろいろなことで悩むのですが、根っこには自分自身を受け取れるかどうかという存在としての苦悩があります。

 問題は、私自身の内にある。そのことに目覚めた時に、自分の全体を宗教の世界に投げ出す礼拝ということが成り立つのでしょう。ですから礼拝は人間のほうからは成り立ちません。自分の都合を満たしてもらおう、自分の思いをかなえてもらおうというたくらみをもって拝むならば、自分の思いをかなえてもらうために拝んでいるのですから、思いの執着の延長線上にあるものです。人間を救うどころか、帰って迷いを深めるものになるでしょう。

 最初に南無阿弥陀仏は呪文ではありません、と申しましたが、南無阿弥陀仏はすでに阿弥陀のほうからあたえられたものであるが故に、私のせまく、暗い、思いの固執を破るのでしょう。南無阿弥陀仏は、広い世界に連れ出し、自分に帰らせる、如来のはたらきです。 令和6年 11月 深草誓弥

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