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「正義は暗い」 いたみは明るい こまることは なくならない 「明るくこまる」

「正義は暗い」 いたみは明るい こまることは なくならない 「明るくこまる」

 「図書館戦争」というマンガが実写映画化され、地上波で放映がありました。映画の中で、同僚の失態を厳しく指摘する姿を見た教官が 『正論は正しい。だが、正論を武器にする奴は正しくない』と、部下を諭すセリフがありました。

 人間として正しい考えや意見を持つことは必要なことですが、教官が言うように、正しい事「正義・正論」を盾にして相手を追い詰め傷付けることは、正論であっても正しい事とは言えません。さらに人を追い詰めるときのその顔は、鬼の様な顔をしています。決して明るくはありません。

 例えば、交通事故で子供を亡くなってしまった両親に向かって、「お前たちがちゃんと見ていなかったのがいけないのだ」と、追い詰めるようなものです。鬼のように責め立て怒ったとしても、子供が生きて帰ってくるわけではありません。逆に悲しむ親を更に悲しみのどん底へ突き落としてゆくだけです。正しさは外に向かう時には、暗さをもってはたらきます。この様に私達は常に、正義の位置に立ちたがり、他者の悲しみを「いたむ」心が欠けているように思われます。

 阿弥陀仏の心は「大慈悲心」という言葉で表現されます。一切の衆生を慈しみ育て、悲しむ心です。悲しむ心は「悲痛」という言葉にも通じます。阿弥陀仏は衆生が流転し迷う姿があまりにも悲しくて、心を痛めておられるのです。その様な阿弥陀のはたらきを感じればこそ、私達は他者の苦しみに寄り添い「相手の心をいたむ気持ち」が生まれ出てくるのではないでしょうか。そして人を明るくさせ、心を開いていくのです。「いたみは明るい」とは、この様な意味があると思います。

 また私達は、今月の言葉のように「こまることは、なくならない」生活をしています。生きていれば様々な災難にであったり、不都合なことにであったり、こまることが様々あります。そんなときには「こんなはずじゃなかった、なんで自分だけがこんな目に・・・」と下を向いてこまり果て、心も顔も暗くなります。

 しかしよく考えてみると、この(身)は老・病・死する存在です。若く健康で長生きを求めますが、縁さえあればいつでもその理想は崩れ去ります。そしてこの環境(土)も思い通りにはなりません。気づいたときには私は生まれていて、望んでいなくてもこの環境(土)が与えられていました。今月の言葉の様に、生きるということはこまることばかりで、無くなりはしません。自分の思い通りにはならないけど、この身と土を生きているのが事実です。

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄、後序)

 と歎異抄の中で親鸞聖人は、本願念仏に出会えたよろこびを語られます。煩悩に悩む私を、「そくばくの業」を抱えてこまっている私を、いたみ悲しみ、たすけて下さる阿弥陀様の存在がありがたく「かたじけなさよ」と、表現しておられます。その救いのはたらきに出遇ったならば、人生に於いて生じる様々な困難を「明るくこまる」事が出来るのではないでしょうか。ひとりで困るのはつらいです。阿弥陀様と一緒にこまれば、けっして暗い人生ではないはずです。
 こまることさえも明るく引き受けていく力が、本願念仏の力なのでしょう。 貢 清春

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