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自分の都合で 亡き人を 鬼にしている この私

平成23年8月

自分の都合で 亡き人を 鬼にしている この私

 鬼という字の意味を尋ねると、“隠”という字から生まれたらしく、姿や形が見えない存在や死者の霊魂、亡霊、また、人にたたりをもたらす怪物などの意味があるようです。

 古い中国の思想に、人は死ねば、肉体と心を支配していた魂が、共に分離して天と地に至り、神や鬼となって、私たちの生活を支配する存在となるという考えがあります。今でいう、霊魂の考えの基となったものだろうと思います。目に見えない存在を、古代の人々は神や鬼として畏敬し、その存在が普段の生活に災いをもたらさないように願って、供養をして、お祀りをし、崇めてきたという歴史があるのだろうと思います。

 しかし、こうして見ると、人間は思想や考え方によって、身の回りのものを判断し、決めて来たようですが、今度は逆に、その事に惑わされ、苦しめられているのではないかと思います。親鸞聖人は、物事を自分の都合で判断していく心を、“罪福信“という言葉で教えて下さっています。自分にとって都合がよければ善し、都合がわるければ悪し、としていく心です。

 ”鬼はいない。私の身勝手な欲望が、なつかしい先祖までをも鬼にしてゆく“と、今月の言葉の説明には添えられています。鬼は、怖くて、恐ろしく、災いをもたらす存在として考えられてきました。しかし、それは、本当に存在するものではなく、全てを思い通りにしていこうとする、私たちの自己中心で、身勝手な心が、鬼の正体として表されているのです。

 近年、霊感商法で“何代か前の先祖が祟っているから、この商品を買いなさい”というような手口にあっさりと欺されて、高額な商品を購入させられたりするケースが目立ちました。私も、現場に出て間もない頃、慣れない中、何代か前の先祖の供養をしてくだいというお宅に、法事に伺った事がありました。慣れないお経を一生懸命に上げるのですが、終わっても何かすっきりしない気持ちで、わだかまりを抱きながら帰りの道を走っていたことを思い出します。

 その時、思ったことは、先祖は私たちに危害を加える存在ではないということでした。今月の言葉に言い変えると、私たちの心が、亡き人をも危害の加える“鬼”にしているというこです。

 浄土真宗では、亡き人を“諸仏”としていただいてきました。私を教えに導いてくれた人、真実に導いてくれた人、という意味です。仏前に座る、墓前に参る、亡き人を偲び、手を合わせる時、“諸仏”として亡き人を頂き直してみてはいかがでしょうか。

(立白法友)

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