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現在の自分が、 今の如くあるのは、 これまで どのような出会いをしてきたのか、の結果。  よき人と出会いたい。 (平野修)

現在の自分が、 今の如くあるのは、 これまで どのような出会いをしてきたのか、 の結果。
 よき人と出会いたい。 (平野修) 平成24年12月

 人間は出会いによって、その生き方が変わるということを、改めて思うことがあります。最近、幼い子供と接する機会が増え、その姿に照らされて、自分の幼いころの事をよく思い出すことが多くなってきました。そんな思い出の中に、中学一年生の終わりごろ、小学校の低学年から仲良くしていた友達からの電話の後に、「兄ちゃんはYくんと話すとき、口調も眼つきも悪くなる」と、母親から突然言われたことがありました。
 自分では、意識して変えているわけではないのですが、どうもその友達と遊んだり、話したりしている自分が、普段家にいるときの姿と違うようなのです。そのことに、私は「そんなことはない いつものようにしている」と言い返しましたが、そのときに、なにか心につっかえをおぼえました。確かに、その友達と居ればなんだか楽しい、何でもできるような気がするのでした。
 そんなことを思いながらも、そのYくんと関わりを続けていましたが、中学を卒業して高校に入学するまでの休日の間に、遊ぶ機会があり、いつものように遊んでいると、Yくんの持っている携帯電話の私の登録名が”日本猿”という明記になっていることに気づき、なぜそんなことをするのだろうと悲しみをおぼえたことがありました。そのとき、以前に母親に言われたあの一言が思い出されて、やっぱり関わってはいけない友達だったんだと、深く反省したことがありました。
 今思うことは、心優しく育って欲しいと心から願っている母親が、横道にそれていく我が子を悲しみ、声をかけてくれたんだと思うのです。しかし、なかなかそのことに、聞く耳を持てないものを未だに抱えているように思います。また、なぜYくんが、私を動物に喩えて表現することしかできなかったのか、その心に潜む課題、向き合わなければならない問いを、与えてくれたように感じるのです。

 蓮如上人の教えに、「『人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。わがみにしられてわろきことあらば、能く能くわろければこそ、身にしられ候うと思いて、心中を改むべし。ただ、人の云う事をば、よく信用すべし。わがわろき事は、おぼえざるものなる』由仰せられ候う。」と、わがみの事を、一番知っているのは、誰でもないこの私と思い込み、自分が間違っているなど疑いもしないで生きている日頃の姿が、どれほど迷いを深めているかを教えてくださっている言葉です。
 私は当初、声を掛けてくれた母親が間違いだと思っていました。楽しく遊べる友達を見極められないのは、母親の方だと嘲笑っていました。しかし、それが間違いでした。Yくんのことを考えてみても、他人を影で笑う憎い存在としか思うことが出来ません。しかし、よく考えてみると、私も同じことを母親にしていたのです。そのことを知ったとき、Yくんを見る目線が変わって来たように思います。

 今月の言葉は、よき人、”師”という存在が私たちにとって必要だということを言っていると思います。親鸞聖人は、師の法然上人を”よき人”と呼び、その出遇いを、
 「曠劫多生のあいだにも 出離の業縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」
と、和讃に詩っておられます。”よき人との出遇いがなかったならば、この生もいたずらに過ごし、空しく終わっていただろう”と、師に出会う大切さを語っておられます。自分を知ったこととし、それで間違いないと決めつけ、”どうせ”と言いながら、自分と他者を比べて、ふてくされて生きる生き方を問い、与えられた身の事実と向き合い、その身のまま生き切ることの大切さを教えて下さる存在です。

 ”後生の一大事”という言葉を、蓮如上人は御文の中でしきりに使っておられます。それは、今の生き方で本当に死んでいけるのか、悔いを残さず命終えていけるのか、ということを示しています。ある先生は、”迷いの最後生を遂げる”ことができるのかという言葉で表しておられます。私は、母親には常に反抗してきました。こうしなさい、ああしなさいと言われるたびに、苛立ちを表に出し、声を荒げて”そんなことは分かっている”の一点張りで刃向ってきました。しかし、今回、幼い子供と向き合う中で、真実に人として生き切って欲しいと願う、親の願いが痛いほどわかりました。私の荒々しい言葉に、心痛めながらも、声を掛け続けてくれる母親の尊さを身にしみて感じました。どうでもいいことだと思っていた親からの呼びかけは、私がこの生において、迷いを超えていく確実な一歩であることを今月の言葉と向き合う中で、確かめることができたと思います。よき人という存在は、持つべき大事な存在です。それは、自分にとって都合のいい存在ではなく、常に自分の生き方を問い、悲しみ、育んでくださる存在です。どこかに居られるのではない、いま目の前にいる尊い存在が、私にとってかけがえのない”よき人”となっていく、そんな学びを続けていきたいと思います。  (立白法友)

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